多分、エセーニンの詩だったか。
「僕はボスポラス海峡に行った事がない。
ボスポラス海峡のことは聞いてくれるな。
キミはボスポラスを見たか。
ボスポラスを見ずしてボスポラスを語るなかれ」
そんな内容の詩だった。
見ずして語るな。
福島を原発を語る時、二つのアプローチがある。学者や研究者、そして政治家、官僚。東京のマスコミ。大局からの視点で語られるフクシマ。それは原子力政策であり、エネルギー政策であり、「政策」と言う名の視点。そこには「人」が欠落している。
もうひとつは「現場」から語られる福島。当事者、現場から、現実を目の前にしての言葉。それが原発問題の総論の出発点でなければならない。と思う。
何万という避難民。その人たちが抱える問題の数々。中には「良からぬ」事例があったとしても、現場の一つ一つの積み上げで“総論”は語られるべきだと思う。
それは沖縄にしても然りだ。ヒロシマもナガサキもそうだ。
60年以上前の戦争の位置づけ、侵略の定義。60年後もそれは定まっていない。
60年ちょっと前を、いや70年前を「歴史」として位置付けるなら、それの歴史は中央の“大局的見地”から書かれ、伝えられ、中途半端なまま放置されてきた「戦争論」だからだ。
当時を知る人は少なくなった。少なくなった当事者や現場を知る人の語る言葉や歴史と政治家の語るそれには大きな乖離がある。
近々出されるタウン誌に敢えて書いた。敢えて「提起」した。
“被災者責任”とう言葉を、問題を。責任と言うのは、罪科を責めると言う事では決して無いという意味で。為さねばならぬ務めという意味で。
それは体験を克明に語り記し、「事実」を後世に伝えねばならないということだ。
仮設住宅で日々、短歌を詠む人がいる。句を詠む人もいる。詩を書く子供たちもいる。
それらは「見て」語られたこと。
単調な日々かもしれない。特に何もなかった日の連続かもしれない。それはそれでいい。あらゆる意味で「過酷」な生活を強いられている人たちが、その日、その日のことを、短い文章でもいい。毎日綴ってはくれまいか。語ってはくれまいか。
30年先。その時点から2011年を振り返れば、それは「歴史」となるのだろう。30年先の「歴史認識」が手あかにまみれた人達の、意図的な“事実”によって捻じ曲げられることを恐れる。
ボクは福島県に住んでいる。暮らしている。しかし、何回も言うが「中途半端な被災者の一人」に過ぎない。全体なんて見渡せない。知りえない。東電との交渉、難儀な交渉も無い。8万円と4万円の慰謝料を複雑な思いで東電から“貰い”、いったんは口座に振り込んで“貰い”、それを、それなりに、使った。自分のものを買ったわけではない。
だからお願いする。「碧の火の燃える海」のような目を持って、その怒りを湛えた眼を持って、現実を書き、後世に伝えて欲しいのだと。
あなたがた自身の言葉で、あなたがた自身が体験したことのさまざまを。
公開を目的としなくてもいい。自分自身の記録としてだけでも何十年もの「自分史」を綴って欲しいなと思うのだが。
僕はボスホラスへは行ったことがない。 僕は帰還困難区域にも、立ち入り禁止区域にも行ったことがなにのだかから。語れない人の一人なのだから。
「フクシマ」を知らずして、見ずして、福島を語る人のなんと多いことか・・・。