水のことが気になって仕方が無い。梅雨のことではない。飲み水でも無い。原発事故現場に溜まっていく水の事だ。
水は天や地からの人間にとって最大とも言える「恵」である。だからだろうか。
あちこちに水を祀った神様がある。水神さまとも言われる。
東京にだってある。水天宮が。郡山にも久留米の水天宮というのがある。水天宮の本営は福岡県久留米市にある。水天宮は水と子供を護り、水難除けや農業、漁業の“神様”である。
言わずもがな、郡山の久留米という場所は九州の久留米藩が入植、開拓した場所。当然、守り本尊を持ってくる。
天地の「恵み」は循環するもの。土や川から生まれた水は海に注がれ、海はそれを蒸発させて雲を生み、雨を降らす。
自然は循環しているものなのだ。自明の理だが。
文明の進化の結果、科学技術の粋を集めて(のはず)作られた、原子力発電所が一番必要としているのが水だということ。原子が原始からあるものに頼っている・・・。
溜まり続けていく“汚染水”。
一昨年の爆発時は、何よりも冷却のための水を必要とした。原子炉を水で冷やすために、空から水を撒き、地上からは放水が行われ、海から水をくみ上げて冷やした。何よりも必要なものが「水」だった。
それが、“小康状態”を保っている中で、水は「邪魔物」になって来た。
汚染水を浄化処理するための「アルプス」という装置も、ある種類の核物質が除去できないとして機能するメドが無い。
地下に作った貯水槽からは水が漏れ、全部地上のタンクに移し替える。来月中にはそのタンクも満杯になる。
増設するしかない。間に合うかどうか。
建屋内に溜まった水の半分は地下水だという。地下水を途中で“せき止め”、海に流そうと試みる。その地下水は途中で遮断された地下水の汚染濃度は、近くの川や井戸の水と変わらなない数値だという。
でも、それを海に流すことには漁民は反対する。
なぜか。「風評」に懲りているからだ。
魚が汚染されている。もうこんな風評には懲り懲りしているからだ。何でもかんでも、味噌クソ一緒に、「いたぶる」輩がいるからだ。2年間の苦労が水の泡になってしまうことに耐えられないからだ。
地下水は、まともな「機関」が線量、汚染検査をして、問題無いということになったら海に流すこともやむをえないと思う。海もきっとそれを許してくれると思う。問題は「風評」なるものにどれだけ耐えうるかだ。
干ばつの時は、人は雨乞いをして、神に祈って水を乞うた。今度は、地下水止まれと乞うのか。
貯蔵タンクの増設はどこまで可能なのか。廃炉まで続くのか。汚染水問題を解決する手段を今は誰れも持ち合わせていない。
なるようにしかならない。そのうち誰かがどうにかするさ。そんな安易な楽観主義が、この国の空気となっているような気がしてならない。
沖合に巨大タンカーを並べて、そこに汚染水を溜めるのか。それだって限界がくる。
静岡県から5億円で買い取ったメガフロートはいまどうなっているのか。
去年、満杯になっていると聞いたがそのままなのだろうか。汚染水を積んだままどこかの汚染水処理能力がある原発施設に運ぼうとでもしているのか。
水の行方・・・。誰にもわかっていない、様々な水の行方。
我々門外漢はだまってその推移をみているしかない・・・。せめて久留米の水天宮さんにお参りしてくるしかないのか。