2013年5月26日日曜日

「昔、言葉は思想であった」

きのう裏磐梯にある諸橋近代美術館に行ってきました。
特別展の岡本太郎展、そしてダリの新たな入手作。
岡本太郎の作品に添えられた言葉に打ちのめされてきました。

まさに、彼の「思想」がある。思想とは決してイデオロギーを言うのではなく。
普遍的な言葉として。

「進歩と調和」をテーマにした大阪万博。そこに彼が作った「太陽の塔」。

彼は言葉にして語る。
「“進歩と調和”というのは、ぼくはストレートに扱いたくない。
進歩というのは化学工業の進歩であって、人間は果たして進歩したかというと、少しも進歩していない」。

4年前から始めた塾。粒々塾。その第一回目の講義のタイトルは「昔、言葉は思想だった」。

言葉が乱れている時代、塾生に「言葉とは何か」。その重要性を考えて貰うために選んだタイトル。それから何回も、2011年3月まで続けたタイトル。言葉についての様々なこと。

最近知った。保守の論客、思想家で評論家の西部邁氏も同じような題名の本を書いているという。

ヨハネの福音書。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった」。ギリシャ語では言葉はロゴス。論理・意味・真理・理性・哲学を指す。またイディアとも言う。それは観念と訳す。

いわゆるコンビニ敬語とか、マニュアル敬語のことはおいておく。

日本語がおかしい。日本語というか「言葉」が。
言葉がおかしいということは論理や真理、理性、哲学がおかしいということになるのか。

いわゆる「ヘイトスピーチ」なるものが話題になっている。現場を見てはいないがネットでの動画を見ると背筋が凍る。
殺せ、出て行け、叩きのめせ・・・。明らかに韓国や北朝鮮籍の在日外国人を指した言葉。中国人も含まれているのか。

ヘイトスピーチを法規制すべきという意見がある。法学者は憲法の表現の自由という観点からその整合性が無いとし、法規制に馴染まないとする。
そりゃあそうだ。これは法の問題では無い。真理、理性、倫理観の問題なのだ。

当該国はもちろん、アメリカもこの現象を懸念する。日本人の“民度”が問われている。もっとも、”ジャップ”という言葉を浴びせられた時もあったが。

安倍政権が誕生した以降、それは目立ってきた。在特会という団体が主導しているらしい。その原点は「歴史認識」にある。「侵略の定義」。それらへの”思想”が言葉になっているということか。
石原慎太郎も然り。憲法問題での“過激”な発言。
そして橋下大阪市長の慰安婦や風俗をめぐる妄言。

「言葉は思想だった」。過去の言い習わしかもしれないとも思う。
言葉が思想であるならば、それがコロコロと変わり、訂正され、いつの間にか言い替えられている。思想とはもっと確固たるものではなかったのか。

ヘイトスピーチなるものは、形は違えども、福島に対して寄せられている。
福島はその種の”ヘイトスピーチ”に曝されているともいえる。
その論理性を欠き、誤謬に満ちた、デマの類いが公然と流布されている。不用意に何の疑いも無く拡散されている。

2年余り、それに福島県民はさらされ、耐え、時には反論し、悩み、傷ついて来た。さらに手を変え品を変え、それらは流布されるだろう。

ヘイトスピーチなるものの根源にあるのは「差別意識」だ。世界の歴史を見ても、例えばナチスドイツを見ても、人間は常に“差別”とともに生きて来た。

ヘイトスピーチなるものが町中を”闊歩”している時、街角に飛び交う”憎悪”を見る時、そこに見る。
「少しも進歩していない人間」を。日曜妄語でした。

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