2013年5月3日金曜日

不磨の大典

かつて我々世代は日本国憲法を不磨の大典と呼んだ。

「不磨の大典」、その言葉を知っている人が今、自民党の政治家を維新の、民主の政治家を含めどれくらい居るだろうか。

あなたはご存知でしたか。

明治の欽定憲法がそう言われた。現行憲法にもそれが受け継がれているはず。

不磨の大典とは、「擦り減らないほどの立派な基本法」という意味である。
帝国憲法の発布にあたり、明治天皇もその勅語でこう述べている。
「現在及び将来の臣民に対し、この不磨の大典を宣布す」と。

不磨の大典という捉え方は、明治憲法に替って公布だれた昭和憲法、今の憲法にも通じる“思想”だと思われていた。

明治憲法にも「改正条項」はあった。しかし、誰の手をつけなかった。

今、安倍政権が再来して、改憲論議が盛んである。ここ何十年、憲法記念日にあたる今日、憲法論議がこれほど新聞紙上やマスコミの話題になったことはあっただろうか。
昭和の一時期、憲法記念日のニュースは改憲派。護憲派の集会を簡単に取り上げたニュースだけだったような気がする。

その意図はともかく、安倍政権が、安倍自民党が、それが安倍の“個人的趣味”であったとしても、憲法論議を国民レベルに持ち込んで大いに議論される、いや、せざるを得ない状況を提供した。いいことだと思う。マスコミもそれに飛び乗っている。いい機会だ。皆で憲法を考え、学び、議論すべき時なのかもしれないから。それを権力は、議論の提供者として、“静観”してもいいのではないだろうか。

ある時期、法曹界入りを目指していたボクは、高校生の時、徹底的に憲法を読んだ。学んだ。最初に接したのは中学生の時だったと記憶している。
なぜ読みこんだか、学んだか。大学入試のためでもあった。しかし、それ以上に、あの前文の「美しさ」に心打たれたからだ。今でもその全文を暗記しているくらいに・・・。

文学者である石原慎太郎は、その前文を醜悪な文章と酷評してはばからなかった。文章の受け止め方は各人各様。

昭和40年代、東北のある寒村に独立国が誕生した。その国は、時の日本政府に愛想をつかしているにも拘わらず、憲法は日本国憲法をそのまま“不磨の大典”の如く理想として掲げた・・・。小説「吉里吉里人」。作者の井上ひさしは子供のために書いている。憲法の分かりやすい読み下しと、その精神を。特に前文にこだわって。そこに憲法の“精神”が“本旨”が書かれているから。

長いが引用する。
私たちが、同じ願いをもつ 世界のほかの国々の人たちと 
心をつくして話し合い そして力を合わせるなら
かならず戦(いくさ)はいらなくなる
私たちはそのようにかたく 覚悟をきめたのだ

私たちは、人間らしい生き方を尊ぶという
まことの世界をまごころから願っている
人間らしく生きるための決まりを大切にする
おだやかな世界を まっすぐに願っている
だから私たちは どんなもめごとが起こっても
これまでのように 軍隊や武器の力で
かたづけてしまうやり方は選ばない
殺したり殺されたりするのは
人間という生き方だとは考えられないからだ
どんな国も自分を守るために 軍隊を持つことができる
けれども私たちは 人間としての勇気をふるいおこして
この国がつづくかぎり その立場を捨てることにした
どんなもめごとも 筋道をたどってよく考えて ことばの力をつくせば かならずしずまると信じるからである
よく考えぬかれたことばこそ
私たちのほんとうの力なのだ
そのために、私たちは戦(いくさ)をする力を
持たないことにする
また、国は戦うことができるという立場も
みとめないことにした

今、叫ばれている憲法論争。96条の改正から始めると言う安倍の手法。いわば「入口論」。お目当ての9条改正はその後だという。まさに「政治的憲法改正論議」。96条を改正して改憲をやりやすくするということ。それは不磨の大典を否定すること。

自民党の改憲草案なるものに、あの、それこそ石原の言葉を借りるなら「醜悪」な文章は無い。しかも、憲法そのものを取り違えている。

憲法は国民が政府を“監視”するための、立憲主義に基づいたもの。国が国民を規制するためのものではない。権力に勝手なことをさせないよう縛りをかけた最高法規だ。
自民党の改憲草案は、あらゆる分野で「国民への縛り」をかけている。本末転倒なもの。

選挙制度は違憲とされた。それの根本的是正は為されようともしていない。違憲の状況に身を置く議員が、その憲法の改正を言う。

憲法25条。国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。今、東北の被災地3県。特に福島県。県民とて国民だ。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利は守られているのか。いない。これとて政府は憲法違反を犯しているのだ。

現行憲法は「占領軍による押しつけ」だとされる。アメリカが一方的に押し付けてきたものだけなのか。
少なくとも、日本人の学者や識者もその作成に関与している。その一人に福島県相馬市小高区出身の憲法学者、鈴木安蔵がいる。間接的起草者とされる。

明治憲法の制定を求めた自由民権運動家の一人、苅宿仲衛は浪江町の人。彼らの墓は倒れたまま放置された状態・・・。

彼ら先人は、今の憲法論議をどうみているのだろうか。聞けるものなら聞いてみたい・・・。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

憲法議論は、絶対に必用でょうね。
そして、国民の生命を守る事は、国家としての最低のことだろうと思うが、
武力のみを考えると、国家ではなく、地球国として考えると不用で、人間どうしのただの、陣取り合戦、喧嘩だったら、日本でいえば軍隊より、警察が取り合えず暴力を止めるでしょう。
しかし、国家どうしの、領土争い、喧嘩だったら、誰が止めてくれるのでしょうか?
今の現状から考えると、相手方が、日本国民を殺されなければ、或いは領土を取られた後でないと動く事すらできない。
地球国が纏まるまで、どうしたら地球より重い私達の、親、子供の命を守る事が出来ますかねね?
攻撃してきた国?に子供を撃たれたら、自分の命を捧げたら、攻撃は無くなるのですか?
多分無くならないでょうね。
攻撃した方が、地球の恒久の平和などにきずかない限りは。