2014年7月20日日曜日

「民主主義」と「福島」

身の回りにあり、普段何気なく使っている言葉。民主主義、平和。自由・・・。
あまりにも、それは「空気」と同じように「あるもの」として「ある」がゆえに、そのことについて深く考えないようになってきてしまった。

民主主義とは何か。あらためて問われた時、人は、おおかた、どう捉え、なんと答えるかにたぶん窮するはずだ。

民主主義。その概念は、それこそ古代ギリシャにまでさかのぼる。日本だって、たとえば明治維新。五箇条の誓文。「広く会議をおこし、万機公論に決すべし」。この一文だって民主主義の“原理”を説いている。

民主主義はデモクラシーと言われる。大正デモクラシーと呼ばれる時代があった。

だいたい、「主義」っていうのは何か。イデオロギーなのか思想なのか、価値観なのか。
「私は菜食主義です」と言われて時の主義って・・・。

今、この国は民主主義国家である。そのことを誰も否定はしまい。呼称として。
だから、あえて言えば「戦後民主主義」という見方が妥当なのかもしれない。

理念としての民主主義。それは民意が正しく反映され、それこそ「民本主義」、主役は民だということになる。
制度としての民主主義。それは主権在民であり、議会制民主主義ということになる。議会制民主主義とは、議員内閣制とは制度としての、手段の民主主義を具現化する方法。

そこにあるのは「多数決原理、少数意見の尊重」。それが現実のものとして存在しているのか。まともに認識されているのか。

事例をいちいち挙げないが、今、この国の民主主義が問われている時だと思う。

納得できる説明、住民合意。福島で3年間言われてきた言葉だ。それが民主主義の在り様として。でも「完全な住民合意」なんてありえない。

議会制民主主義だって、代議制だって、そもそも「国」と「地方自治体」では、その在り様を異にする。

選挙制度は、時の為政者や政治家によって変えられる。中選挙区が小選挙区になった。あげく多くの「死に票」を生む。それをやむなしと見るかどうかだ。
民主主義の名のもとに。

軽々に言うべきではないかもしれないが、「津軽選挙」と呼びならわされるものがある。金で票を買うという“民主主義”。

政治を論じ、断ずる人たちは、最後に必ずいう。彼らを選んだのは最終的には
“国民”なのだから、“国民全体”の責任だと。理屈はそうだ。でも、それに納得している人はどれくらいいるのか。
なんか「綺麗ごと」に逃げた論のような気がする。

福島における民主主義とは。民意の反映とは。合意とは。納得とは。今、福島にある様々な事象。それを民主主義という概念、理念で理解することは難しい。

個人が尊重されているのか。いない。民主憲法で保障された権利が行使されているのか。いない。

議員内閣制は地方には無い。間接民主主義の結果として生まれた地方議員。直接選挙で選ばれた首長。国の在り様とは、また違った観点で見なければならない。

なんでこんなことを書いているのか。昨夜のNHKの番組。日本人は何を考えてきたのか。そこで丸山真男が取り上げられていたからだ。個人の、個々の考えがどこまで生かされているかという観点からの。

戦後民主主義と書いた。なぜか。戦争を体験した人が考える民主主義と、戦争を知らない世代の人たちが考える民主主義には、どこか相容れないものがあるような気がしたから。

畢竟、こんな考えにもなる。原発再稼働。それも、議会制民主主義の結果として今の内閣に与党に、それを一任した覚えは無いということ。
「個」は、再稼働の流れの中で、再稼働を求める空気にの中で、“埋没”させられてしまっている感ありと言うこと。

あらゆる意味で「民主主義とは何か」。今、時間をかけてでも再考する時代なのかもしれないと思い・・・。

これも恒例、日曜妄語なのであります。

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