2015年2月10日火曜日

グローバル社会の中のドメスティックさ

今、21世紀はグローバル社会だという。グローバリズム、グローバリゼーション・・・。グローバル経済、グローバルな人材育成・・・。

グローバルという言葉が氾濫している。もちろん政治の場でも。

明治維新前後を思う。こぞって西欧に目を向け、列強に伍すとした若者たち。

「坂の上の雲」に彼らは何を見たのかということを。

文明開化、近代国家日本。それが日本の選択として果たして正しかったのかも、今となってはいささか疑問符がつく。

明治政府はすでにして天皇を「政治利用」し、有名無実の存在に祭り上げてきた。天皇の名を使って、それに抗えない国民性を利用して、己らの権力行使に躍起となってきたような感。

グローバルの名のもとに、TPP交渉を加速させ、その一環としての農協解体。

そして、真逆にある“国家としての日本”。

よく耳にすること。海外で航空機事故や海難事故がある。すぐに「日本人乗客は」となる。いない。その事故を報道しなくなるメディア。多くの外国人が被害にあっている、亡くなっているというのに。
グーロバルなら人の命は国籍関係ないだろうともいいたくなるこのドメスティックさ。

後藤さんの事件を思う。彼が日本人だったから大騒ぎしたのか。ジャーナリストだったからなのか。山本美香さんの時とは大違いだ。

アメリカもヨルダンも「イスラム国」への空爆をさらに過激化させている。800人の兵士を殺したと「当たり前のように」伝えるメディア。

目に見えたことしか関心がいかない。
「国家」はそれをもう忘れたことのように動いている。

何故この事件が起きたのか、この事件の持つ意味は。あまり関心が無いようだ。

国による“交渉”も含めた検証なるもの。原発事故がそうであったように、何もせずに終わってしまうのではないかという危惧。

時あたかも集団的自衛権論議が燃え盛っている時だったから世間は大きな話題にしたのか。
その前に「シャルリ・エブド」の事件があったからか。

ドメスティックになる。二つの事件を思い出す。もう世間からは忘れ去られてしまったことを。

去年6月か。新宿駅の南口で焼身自殺を図ったひとがいる。憲法を読み上げ、与謝野晶子の「君死に給うことなかれ」の詩を読みながら自分の体に火を放ったひとのことを。

その人は路上生活者のようだった。そんな後追い記事があっただけで、その人のその後は伝えられない。

その後、日比谷公園で、やはり改憲反対、集団的自衛権反対を訴えて焼身自殺を為した人がいる。
それも、その後話題に、ニュースにならない。しない。

それらは何を物語っているのだろうか。

後藤さんにしても湯川さんにしても、山本美香さんにしても、ヨルダン人パイロットのことにしても、そして「戦争」で死んだ人も、兵士でも民間人でも、大人でも子供でも、「命」ということに置いては、みな“平等”なはずなのに。

「政治」が「外交」が絡むと問題視されると言うことなのか。「テロ」という言葉があると問題視されるということか。


忘れている。忘れられている。

孤独死、介護死。忘れられた多くの死が我々の周りにはあまりにも多い。

あの「イスラム国」のテロの標的が、過去にあったように外国人のジャーナリストだったらどういう扱いをされていたのだろうか。この国はどういう反応をしたのか。

国家とは何か、民族とは何か、そして宗教とは・・・。

だからね、今の日本と言う国の“正体”を見極めたくなるのだ。
おどろおどろしい格好をして威嚇しまくっているヘイトスピーチなるものを外国人排斥を言うあのバカな奴らがなぜ寄生虫のように生まれたのかも含めて。

それを「放置」している、時には「擁護」しているようにも見える、そのあまりにも“ドメスティック”な世情をどう読み解けばいいのかも含めて。

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