2015年2月12日木曜日

「荒野の40年・・・」。

ベルリンの壁が崩壊し、統一ドイツが成し遂げられた時、当時の大統領、ワイツゼッカーが議会で行った演説の題名。「荒れ野の40年」。

そこにあった「言葉」は、至言をして今に生きており、歴史上語り継がれるであろうと思う。

時々引いた言葉。

「歴史の中で戦争と暴力に巻き込まれることから無縁の国などほとんどない。しかしユダヤ人の大量虐殺は歴史上、前例がないものだ。
 この犯罪を行ったのは少数の者だった。あまりにも多くの人が、起こっていたことを知ろうとしなかった。良心をまひさせ、自分には関わりがないとし、目をそらし、沈黙した。戦争が終わり、ホロコーストの筆舌に尽くせない真実が明らかになったとき、それについて全く何も知らなかったとか、うすうす気付いていただけだと主張した。
 ある民族全体に罪があるとか罪がないとかいうことはない。罪は集団的ではなく個人的なものだ。発覚する罪もあれば、ずっと隠されてしまう罪もある。あの時代を生きたそれぞれの人が、自分がどう巻き込まれていたかを今、静かに自問してほしい。
 ドイツ人だからというだけで、罪を負うわけではない。しかし先人は重い遺産を残した。罪があってもなくても、老いも若きも、われわれすべてが過去を引き受けなければならないということだ。

 問題は過去を克服することではない。後になって過去を変えたり、起こらなかったりすることはできない。

“過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になる”。非人間的な行為を記憶しようとしない者は、再び(非人間的な行為に)汚染される危険に陥りやすいのである」。


戦後40年にして行われた演説だ。ドイツ国民の多くはこれを覚えている。いや、ドイツだけでは無い。ヨーロッパの国々でもだ。

昨日、ベルリン大聖堂で行われた公式追悼式典。各国首脳が列席した。

彼の「言葉の力」がドイツ国民の意識を変え、ポーランドまでがこの演説によってこころを開いたという。

この追悼式典で、今のガウク大統領は、ドイツ国旗に包まれたひつぎの前でこう述べたという。
「元大統領による一九八五年の演説が重要なのは「誰も気づいていないことを言ったからではなく、その時点でさえ知りたくないと思う人たちがいる中で、国民が知らなければならないことを語ったからだ」。

「国民が知らなければならないこと」。その指摘は重い。

我々はそのことの意味をもっともっと感がえるべきではないのだろうか。
今、我々はそんな“環境”の中にいるということだ。

「イスラム国」事件による後藤さんのことも然り。原発問題も然りだ。何よりも沖縄の現状だ。辺野古の海の中で起きていること。巨大なコンクリートブロックがサンゴ礁を破壊しているということ。

40年後に行われたこの演説。福島原発廃炉まで40年と言われる。40年後、この国の首相はなんという言葉を発して、その「非」を語るのだろうか。
多分、語るまい。

戦後70年、沖縄には今もって「70年前」が存在している。70年間が存在している。米軍基地は“固定化”されたままだ。戦後レジュームからの脱却を言うなら「沖縄」への言及があって然るべきだし、知ろうとしなかったことへの、為したことへの反省があって然るべきだが。

「70年」で安倍は“談話”を出すと言う。彼の「言葉の力」をもってして、国民の心を揺さぶり、世界に向けて日本と言う国が如何に“正義”に立脚した国であり、過去への“反省”を述べられるか・・・。

その予測も含めての“結末”を書くのは悲しすぎるような予感ありだ。
今、まさに日本という国は「荒野の中」にあるのかもしれないし。

“チェルノブイリ”異聞

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