2015年2月22日日曜日

「現在」ということ

~すべて人の一生は神の手によって書かれたお伽噺にすぎない~。
アンデルセンが遺した名言。

きのう「お前はただの現在にすぎない」と書いた。それは“テレビ論”ではあったが、”自分論“として考えた。

現在とは人の一生のことと。

生まれて生きている限り、それはその人の「現在」。生まれる前はもちろん過去。
逝った先は未明なのだと。

あの体験した、見聞きした「3・11」。あれは現実だった。決してお伽噺ではなかった。でも、どこか、心の深層では「お伽噺」であって欲しいとも思った。
そんなお伽噺を神が書くとは思えなかったが・・・。

いくつかのお伽噺を信じ込まされてきた。信じ込んで来た。その最たるものが原発だった。明るい未来のエネルギーというお伽噺。

そのお伽噺の中で「現在」を終えることが出来なかった。

人はいつかは死ぬ。

たとえば戦争。戦争を現在として体験した人が、経験した人が死ねば、「戦争」は終わりだ。過去のものとされる。

しかし、そういう意味での“戦争の終わり”が来るには間違いない。戦争の時に生まれ、戦争を知って、戦後を知って・・・その僕にだってあと何年後か何十年後には“終わり”が来る。

でも、その意味での“戦争”を終わらせてはならない。だから語る。

記録としての、文字になった戦争はある。映像、画像としての戦争はある。録音テープとしての戦争はある。それらの「記録」に接して、それを知ることは出来ても、問いかけは出来ない。質問に対しての答えも返ってこない。

戦争は語り継がれる。あったこととして語り継がれる。それを必死で願う。
しかし、それは聞いた、読んだ戦争・・・。「現在」として存在する戦争ではない。

だから考える。現在を持っているうちに何が出来るかを。

幻想かもしれないが・・・。
広島、長崎に原爆が投下されて以来、たとえばビキニ環礁での「実験」はあったが、現実の戦争の中で原爆は使用されていない。
ベトナム戦争でも、イラク戦争でも、それを使用することは可能だったにも関わらず、保有国はそれを使わなかった。使えなかった。
広島、長崎の被害があまりにも大きく、非人道的だったからかもしれない。

原発。それは最初からエネルギーとしてだけ考えられていたものだろうか。この国も核兵器を、原爆を持ちたかったからではないか。

戦時中、福島県の石川町でウランを原爆製造のために採掘していたという事実がある。それは精度が悪く使用に適さないとされただけ。
原発のためのウランをこの国は持っている。それは「兵器」にいつでも加工できるはず。

「平和で明るいエネルギー」の暗部に、それが本当に無かったのかどうか。
目くらましの原発では無かったのか・・・。そんな幻想、妄想。

原子力規制委員長が「絶対安全とは言えない」と言っている原発。誰しもが、フクシマを経験しているにも関わらず、「安全だ」と自分に言い聞かせて目指す再稼働。

PAZ,つまり原発から5キロ圏内、UPZ、つまり原発から30キロ圏内。それの“避難計画”が、どこかで真面目に語られていることへの滑稽さ。全くとしての避難なんてありえないはずだ。もし、一台の車がエンストを起こして、燃料切れを起こしたという些末な「不測の事態」なんていくらでもあり得る。
秩序だった行動。無理だ。

フクシマの経験則は、今後の対策としての経験則には成り得ない。フクシマを経験した、見知った人達は、より恐怖感を覚えるはずだ。既知のことだから。その恐怖が。福島で起きたことは何等の対策にも成り得ない。福島の人の多くはその恐怖を「知らなかった」から、まだあの程度の混乱で済んだ。
これから先はそうはいかない。

それが、今生きている人の「現在」として存在しているということ。お伽噺がお伽噺ではなくなるということ。

「現在」への思考、認識。それが欠け始めているという現実・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...