2015年2月2日月曜日

今、僕らが考えねばならないこと

ベトナム戦争時、日本の新聞社もベトナムの戦地に特派員を送った。それは「伝える」必要があると考えてのことだったと思う。

毎日新聞に連載されて「泥と炎のインドシナ」。記者は大森実という人だった。
取材拠点は南ベトナム、つまり米軍の側に身を置いてではあったが。

彼の「ベトナム戦記」は、その戦争の実相を伝えてくれた。書かれた記事によって、「ニュース」とは違う視点で、あの戦争の一面を知ることが出来た。

そして朝日や読売も取材団をベトナムに派遣した。朝日の本多勝一郎だったか。はじめて北ベトナムから見た戦争を戦場のルポルタージュを書いた。

それらは多くが文字だった。ついで、戦場にカメラマンが入った。岡村昭彦、石川文洋、沢田教一・・・。写真で「戦場」を伝えた。彼らは通信社の契約特派員という“身分”だった。

沢田が撮った写真。「安全への逃避」~川をわたる母子~。戦場で逃げ惑い、生死の境に生きる人々の姿を捉えていた。

そしてテレビ。牛山純一という人、日本テレビの「ドキュメンタリー劇場」という番組を手がけていた人、彼もテレビ屋として、ベトナムを撮った。彼の作品は“反米感情を煽る”という理由から政治的圧力で放送中止になった。

これらの報道が、べ平連運動を刺激したかどうかはともかく。兵士だけではない、常に犠牲になる市民の姿を捉えることが彼らの目線にあったと思う。

彼らはいずれも「命を賭して」いた。「死」を覚悟していた。それでも、そこを取材する事、伝えることに「使命感」を感じていた。

今、シリアのアレッポには朝日新聞の記者が入っている。彼の記事によって我々はシリアの、それがたとえ断片であろうとも、その地のことを知ることが出来る。そして、他紙はそれを批判する・・・。


この一週間、「イスラム国」のことを考えていた。昨日、後藤健二さんが殺害されて事を知ってから、また考えた。

なぜジャーナリストは戦場に行くのかということを。

それがどこかの会社に所属している人であろうと、フリーと呼ばれる人であろうと、その「戦場」の実相を、そこに暮らす人たちの実態を伝えなくてはならない、そう、例えばクレヨンを持って画を描くことすら知らない子どもたちがいるということを、誰かが伝えなくてはならないからだ。

例えば、シリアには日本の在外公館は無い。そこを知るのはあの「イスラム国」が全くのポロパガンダとして流す映像、ラジオだけなのだ。

毎日、戦果を誇る「イスラム国」のラジオ。まさに、70数年前の大本営発表のようなものだ。

平和な日本という国に暮らしているからこそ、餓えと恐怖と貧困にあえぐ、かの地の姿を伝えねばならないという“仕事”があるという認識。

そこに「自己責任」などという、まったくもって無責任な言葉を浴びせる余地は無い。

たしかに、拘束され脅迫されたということ、それを“救出”するために、国に“迷惑”かけたとうこと。そういう見方まで排除はしない。いや、排除した方がいいのか。後藤さんの為に払った国の努力。それは、平和な環境の中で暮らす日本人の、あまねく「共通のリスク」として負担してもいいのじゃないか。

イラク戦争時の高遠菜穂子さん、シリアのアレッポで亡くなった山本美香さん。取材者でもあったし、その地の人達を支援し、援助するNGOのメンバーでもあった人達。拘禁された人もいる銃弾で命を亡くした人もいる。沢田教一だってカンボジアで銃弾によって殺されている。

その人たちがいなければ、後藤さんのような人達がいなければ、我々は「戦争」を知ることがなかなか出来ない。

「戦争」は知らなくてはいけないものだということ・・・。

戦争を知らなければ戦争は終わらないということ。

“チェルノブイリ”異聞

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