2012年1月31日火曜日

悪い”癖”が始まって・・・

震災後、いったいどれくらい本を買ったのか。数えていませんがずいぶん買いました。震災直後は心の安静をはかるために。自分を律するためにどうしても本に頼る。本に走る。

キザな言い方をすれば、「いつも傍らに本があった」。そんな暮らし方をしてきていたようです。

中学生の頃は貸本屋、古本屋。会社員になってからは、ずいぶん買いました。もちろん書斎なんてない身。居間に本棚が並び。本が置いてある部屋ってけっこう落ち着いたものです。

家を建て直したり、転居するたびに本を始末してきました。捨てるに忍び難く、古本屋に引き取り頼むんですが、そこでも引き取り拒否されるというのが、御時世になっていた。

本屋に居るのが好きでした。数時間は居られた。本を数冊買って喫茶店に入ってすぐページを繰る。コーヒーとタバコと本と。至福でしたね。

なんかのひょうしに時々たまらなく本屋に行きたくなる。行って眺めて買ってくる。日課のようにしていた時期も。

全部読んだかどうかはともかく、買った本は覚えていました。誰かに貸して行方不明になった本も数知れず。

今の家、居間には本を置くところ無し。寝室に本と机。あの大地震。本がみんなベッドの上に落ちていました。寝てる時だったら大変だったかも。

震災後、緊急出版と言って出された新聞社の震災記録。ずいぶん買いました。
続いて原発本や「福島」と書かれた本。そして「リーダー論」・・・。
読破した“打率”は3割台か(笑)。積んどく本になっているのもある。

数年前まではアマゾンの常連でした。これは時々失敗する。

で、やはり本屋に。ところが絶版は免れたものの文庫でしかないものも。例えば司馬遼太郎。いたしかたなく文庫本買うとやはり駄目。字が小さくて読めない。悲しい出来事です。無理して読んでいると数ページでダウン。

新刊の単行本が買えればいいのだけど、財布の中身が。相談しながら、他を削りながらの本買い。

今も読んでいない物がずいぶん書棚に並び始めた。
悪い癖が出始めた。本を買いたい。買わないと落ち着かないって悪い癖が再発。

何を思ったか、島崎藤村の夜明け前全巻まで。

「裸のフクシマ」鐸木能光。「笑う避難所」石巻明友館の物語。「津波と原発」佐野真一。これらのノンフィクションは一気読み。なかなか進まぬ宗教本。

読み終えていないのが沢山あるのに、目のせいでそんなに読めないのに、今は気になる芥川賞、直木賞・・・。困ったもんだ(笑)。

そろそろ買うのはやめ。蔵書とやらを残りの人生かけてもきっと読み切れない持っている本を再読するってのもいいかもなんて思ってみたり。

一日の中で活字を眺めている時間。新聞だけでも手一杯。目いっぱいかもしれないし。

しばらく本屋に行きたいという欲望を断とう。本をみたらすぐ買ってしまいそうだから。買いまくりたいけど金は無し・・・。(笑)。読みまくりたいけど目がダメ・・・。(爆)。そしてもう少し時間が欲しいかも。

2012年1月30日月曜日

故郷とは・・・その5

故郷の“定義”の一つとして、「かって住んだことのある土地。またはなじみ深い土地」と書いた。

自分にとっての故郷とは。時々考える、考えさせられる事である。この”定義“に従うなら、僕の故郷は東京都渋谷区初台ということになる。かつては代々木初台536番地だった。

生まれたのは大阪だという。その後すぐ兵庫県の姫路市にある“実家”の戻ったという。
姫路市北条口102番地。そこがある時期まで本籍地だった。

8月6日の“ピカドン”の時は姫路にいた。広島との距離は200キロ余り。その時の風向きなんて知らない。灰のカケラくらいは吸っていたかもしれない。

“実家”は空襲で焼かれ、祖母、母、弟妹と逃げ回った。多くの焼死者も見た。父親は東京にいた。疎開先の6畳一間で玉音放送を聴いた。おぼろげな記憶として。

なぜか姫路の家の間取りを全部覚えている。門を入ると燈篭がいくつも建っていて玄関を開けると右手が女中部屋。大きな座敷がいくつもあり、奥には仏間があり、離れがあった。渡り廊下で行く。チンという名前の犬がいた。狆。

終戦後間もなく東京へ。復興住宅というのか。三河島の長屋にしばらく暮らした。自転車のタイヤ。ゴムのなくなったリムを棒で押して遊んだ。

父親が探し出した初台の家に住むことになった。幼稚園に行き、小学校、中学校、高校、大学、社会人・・・・。40年以上を初台で暮らし、昭和63年になぜか郡山に来た。
そして現在に至る・・・・。

姫路の家はもちろん焼失した。親戚はいるがもはや縁遠い。そこが故郷という感覚は全く無い。

大学の卒業証書には、兵庫県 瀬川賢一と記されている。

母親は東京都八王子市にある都営の霊園にねむっている。祖母は分骨されてそこにいる。

4年前、東京、初台の家をたたんで郡山に完全に転居した。
かつて住んだことがある地、馴染みの深い土地。そこにはもう家は無い。
子どもの頃遊んだ“狸山”という原っぱは、ロッテの社長宅と高級マンションが建てられている。昔日の面影は無い。笹の葉を浮かべて遊んだドブは暗渠になっている。子どもの頃の遊び仲間は誰ひとりとしていない。
墓守は町田市に住む弟に託した。

初台。そこには大きな郷愁がある。会社があった六本木も郷愁の塊。しかし、たまにその地を訪れても居場所が無い。

郡山に住み続けて24年。ここに骨をうずめるのかと聞かれても、答えを持たない。この地で死に絶えることには疑いを持ってはいないが。

自分にとって故郷とはどこか。心の故郷は東京である。しかし・・・。

「やはりデラシネなんだな。根なし草なんだな」。そんな想いに駆られる時が多い。

そしてー。3・11をこの地で迎えた。この地に居てよかったと心底思う。
福島県民として、郡山市民として、この“汚染された街”に住み、多くの悩みを共有し、老いの身ながらも、なにか為すべき事はないかと模索していることを有り難いと思っている。郷土愛とは違う感情なのだが。

故郷論。本当は、もっと違った、様々な角度からのアプローチも必要なのだろうが。とりあえずはこの辺で・・・。

2012年1月29日日曜日

故郷とは・・・その4

「郷愁」という言葉がある。悲しみや侘びしさを伴った言葉のように聞こえる。故郷を思う心は、この郷愁という思いと重なるような気がする。

自分の過去をたどる。郷愁の一つのありよう。過去とは自分の歴史である。事実に基づいた歴史である。故郷には自分の歴史があるのだ。

友達と、それを示し合わせていたわけではないが、「昔語り」をする時がある。語りあううちに、記憶の襞の中に埋め込まれていた過去が顔を出す。それがいいとか悪いとか、その時代がよかったとか辛かったとかを言いあうのではない。

過去の自分との遭遇。それは、未知への遭遇よりも楽しかったりする。忘れてしまった過去も、忘れたい過去も、すべて自分の歴史である。

故郷には自分の歴史があるのだ。置いてきたものがあるのだ。だから、人は、時に、故郷を恋う。慕う。惜しむ。

故郷を無くすということは自分の過去を失うということに等しいのだから。異土に身をおいていたとしても、故郷を思える人はまだ恵まれているのかもしれない。

故郷を思う間も無く死した人を思えば。自分の過去を振り返る束の間も持たなかった人に比べれば。

酒を飲みながらの昔語り。郷愁を楽しみ。寒空の帰り道。ちょっとだけ明日という日の楽しみが増えたような。

共通する過去や時代が無いと昔語りは難しい。どっかの仮設で、一人郷愁にふけっている老人がいるかもしれない。語りあっている老夫婦がいるかもしれない。
郷愁にひたるがよい。時として郷愁は、人を前向きにさせるかもしれない。決してネガティブシンキングではないと思う。

だれか故郷を思わざる。

それにしても寒い毎日。体調不良の人出るのは当たり前かと。

分断された故郷。そこに住む人、住んでいた人との「こころの分断」を招き始めている。

2012年1月28日土曜日

故郷とは・・・その3

歌謡曲、演歌の中にも「ふるさと」が登場する。数多く。
例えば・・・大月みやこの♪白い海峡♪

人はみな故郷が 恋しくなって一度は泣きに 帰るものなのみぞれが雪に かわる頃わたしはあなたを あなたを捨てた二度ともどって 来るなよと言われた言葉が 耳に残るああ 北ゆく船の 窓は寒い雪が雪が 雪が乱れ舞う

“異常寒波”みたいです。郡山も昨夜は雪が乱れ舞っていました。
会津の仮設にいる大熊、楢葉の人達。雪の生活に疲れ果てているようです。
それでも皆で励まし合っての雪かきとか。「俺たちはハワイから来たんじゃないから」と言いながら。

大雪のせいで死亡者も増えています。北の故郷は雪、雪。故郷の人も泣いているかも。
帰りたいけど帰れない。捨てさせられたあなた・・・。二度ともどれないような気がする故郷。乱れ舞う雪の中で暮らしている避難民。

川内村は帰還を決めた。住民の反応は様々。なんとか無事帰還、全村の復興を祈るのみ。

歌謡曲の中の故郷は大方、都会との対比で登場する。二番の歌詞。

憧れた東京は おんなの谷間落ちたら深く 沈むばかりよこころも胸も ぼろぼろでわたしは飛べない 飛べない鴎
演歌ではないが、きわめて演歌に属すると思われる歌。震災後、静かなブームを呼んでいるという歌。山崎ハコの♪望郷♪

青い空 白い雲 菜の花小道を
かけまわり 蝶々と 遊んだ故郷
真っ白な霧の中 神社の階段を
駆け上がり 手を合わせ 泣いてた小さな子
さみしくて 悲しくて 出てきたヨコハマ
優しいと思っても 皆他人さ
帰ろうか 帰ろうか 田舎のあの家に あの家はもう無いのに

何回も言う。帰りたいけど帰れないのだ。せめて歌に思いを託さねば。
故郷を壊されてしまった人。故郷はあるけど帰れない人。県外に避難している人たちも、この思いだけは皆同じなのかと。

昨夜、郡山農学校主催の放射能勉強会あり。農家の人達はよく勉強している。そして真剣だ。彼らには「故郷」を守ろう、そこでどうにかしようという意気込みを感じる。 ありのままの事実は事実として受け入れ、その対策を研究している。決して感情に流されてはいないのです。

つまらない“故郷論”をもう少し続けことになりそうであう。

2012年1月27日金曜日

故郷とは・・・その2

大地震と大津波。逃げろ~と声にせかされた高齢者は、何を持って逃げたか。先祖の位牌を握りしめて逃げた。そんな人が数多くいるという。

原発事故で避難を命じられ、着の身着のまま避難所に行った人達。やがて一時帰宅になった時、仏壇に花と線香を手向け、先祖の位牌を持ってきたという。

仮設には、それこそ仮設の仏壇を置いている人が多い。仏壇に手を合わせる。それは日常の姿なのだと。

阿弥陀寺の住職から宗教界報、中外日報という新聞が送られてきた。そこにあった見出し。「宗教は郷土性に根差すもの」。

震災以前は宗教のあり方も大都市中心に考え過ぎていた。しかし、震災が起こってみると、もっと伝統を引き継ぎ、郷土性に根差した活動が宗教の根っこにあることを認識した・・・今後、前のめりの生き方から、過去から保たれてきたバランスを重んじた生き方へと変わっていくとすれば、伝統的な文化の中の宗教性をどう保存し、新しい時代に適応していくかを考えなければならない。

故郷とは・・・。墳墓の地である。そういう「文化」を持っているのだろう。人間は。

先祖の、いや、親や祖父母の墓があり、毎日手を合わせる仏壇がある。信仰という概念を越えた精神文化が支えている故郷。

墓。それは死者との対話が出来る場所である。故郷とは生者と死者が共存するところである。

死者があって生者が語れる。死があるから生を語り、考える。

やがて自らも身を置くであろう墳墓の地。死して身を置ける場所。震災前、都会では「無縁社会」という言葉が言われ、孤族という言葉さえ生まれた。それの対極としてある墳墓の地を恋う。それも一つの故郷論かと。

2012年1月26日木曜日

故郷とは・・・

震災後、「ふるさと」という言葉ほど数多く登場した言葉はない。故郷・・。

他にもあてる字がある。古里。そして読みは違うけれど郷土という言葉も。
「故郷に帰りたい」「故郷を捨てる気にはならない」「元の故郷を取り戻そう」・・・。

被災地を訪れた音楽家たちは、そこの人たちと一緒に必ずといっていいほど歌った。童謡の“ふるさと”。ウサギ追いしかの山、小鮒つりしかの川・・・。

この歌ももちろん、小学唱歌で故郷の歌をいくつも教わった。幾歳ふるさと来てみれば、咲く花、鳴く鳥、そよぐ風・・・。

そこに「郷土愛」を植え付けようという教育理念があったのかどうかはしらない。日本人にとって故郷という精神文化は切っても切れないものだったのだろう。

いや、日本人だけではない。生きとし生けるものすべて「故郷」への情念を持っているのだろう。

オールドブラックジョーやジョージア オン マイ マインド。音楽ではないが、ペペルモコの映画、望郷。イタリアのニューシネマパラダイス。

故郷とは人間にとって永遠の「テーマ」なのであろうか。

望郷。戦地に赴いた兵士は「生きて故郷の地を踏もう」と言い合ったという。それは日本という国土だった。亡き戦友の骨を彼の故郷に持ち帰った・・・。

言葉の意味を求めてふるさとで辞書をひく。
「古里、故郷」とある。
古くなって荒れ果てた土地。昔、都などのあった土地。
自分が生まれた土地。郷里。こきょう。
かって住んだことのある土地。またはなじみ深い土地。

こんな味気ない字解きが記されている。ただ一つ。引用例としてあげられている和歌。古今和歌集。「人はいざこころもしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける」。昔人も故郷を想ったのだ。


ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふものよしやうらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても帰るところにあるまじやひとり都のゆふぐれにふるさとおもひ涙ぐむそのこころもて遠きみやこにかへらばや遠きみやこにかへらばや

室生犀星の詩。故郷を「捨てた」ものの悔恨の歌か。

石川啄木も詠んだ。

故郷の訛り懐かし停車場の人ごみの中そを聴きにいく。

なぜ人は故郷を恋ふるのかー。あらためて考えてみたくなった。

2012年1月25日水曜日

社民党は”限界”だ

3月11日に郡山の開成山球場で「さよなら原発3,11福島県民集会」というのが催されるらしい。いや、多分やるでしょう。

どこで、だれが、どんな集会をやってもそれは勝手なんですが。

この集会、脱原発をめざす女たちの会というのが主催者。その会の事務局は参議院議員会館にある福島みずほ事務所。社民党党首の福島みずほさんがやっている会ということでしょう。

なにも名字が福島だからと言って「福島県民集会」なんてやってもらわなくてもいいですよ。

「さよなら原発」。はい、福島県はもう県議会も郡山市議会もとっくに「廃炉」を求めた決議を採択しています。これだけ痛めつけられて「原発賛成」なんて人はほとんどいません。

この集会、他の県などでも行われるみたいですが、違和感この上なしなんです。

反原発集会、やるなら東京でやってください。去年みたいに。官邸の前や国会議事堂の前でやってください。

一人8,000円でお弁当付きの日帰りバスツアー。何人が参加して何台のバスが来るのかしりませんが、県内の関係団体から何人参加するのかしりませんが。

開成山球場で市役所に向かってシュプレヒコール上げたって何の意味もない。郡山でやるんなら、福島県内でやるんなら、防護服着て、検問突破して、原発の前でやったらいかが。

昔、日本社会党という大きな政党がありました。万年野党でしたが、多くの傑物を輩出しました。佐々木更三、通称ささこう。浅沼稲次郎。横路節雄・・・。
社民連に移った江田三郎。民社党を結成した西尾末広・・・。

民社党は後の新進党のある意味“核”となり、日本社会党は、いつのまにか、そう、村山富市が自、社、さ政権で首相になってから社会党は民社党に名前を変え、それこそ昔から言われていたように「長期低落傾向」に陥り、何をとちくるったか、民主党政権の時に国民新党と一緒に政権入り。
社会党の全盛時、原水禁運動が盛んでした。でも、イデオロギーを前面に出した運動、やがて原水禁と原水協の二つに分かれ、お互いをののしりあい、被爆地広島をそっちのけにしたような対立。

こんな歴史の話はともかく、イデオロギーがからんだ政党がからんだ市民運動ってのはどうもいただけない。少なくとも今の福島県には。

皮肉っぽく言えば、反とか脱とか言ってる人が郡山に来ること自体が、「風評被害」の一因になるとも。「苦しんでいるお母さんたちを助けましょう。思いを同じくしましょう」。

福島県の目下の急務は、試行錯誤を繰り返し、なかなか実効があがらない除染問題。反とか脱とか言ってる場合じゃない。危険をあおりたてるのはかえって県民を傷つける。

来るなら、よく見て行ってくださいな。お土産買って帰れとはいわないまでも、福島県では4万人もの人は死んでいません。子どもたちは皆鼻血を出していない。そんな事を「全国のお仲間」に伝えてください。

街には普通に買い物客がいて、商店は開いていて、家が新築されていて、結構皆明るく笑っていたと「見聞録」にでも書いてくださいな。

線量計で線量を計って、「高い!危険」とどっかの教授みたいなことを言うのでなく、皆、普通に暮らしている、自分たちはふだんなんでこんな低い線量のところで暮らしてるんだろうってありがたみ感じていってね。

なんでもキャンキャンわめくみずほ様。もう社民党は限界なんです。選挙があっても、“集会”を票集めの手段にしようと、こんな「K・Y集会」を、多くの市民はしらーとして見てるはず。

2012年1月24日火曜日

「議事録が無かった」ということ

確か、原発事故直後に発足したと記憶している政府の原子力災害対策本部。もちろん本部長は菅直人。その会議の議事録が存在していないという。作成されていなかったという。

数日前、NHKの夜7時のニュースで知った。NHKが情報公開法に基づいて公開請求したところ、討議に項目だけしかなかった。

ふざけんなよ。

今でもこの会議は存在するはずだし、事故後何回も開かれているはず。そのたびに枝野か誰かが会見で内容を喋っていたことはあったが、正式な記録ではない。

未曾有の原発事故。それに政府がどう対処したか。それは立派な歴史的公文書である。
たしかに官邸は混乱の極地にあったことは想像出来る。事務局の原子力保安院は「バタバタしていて議事録を作る余裕がなかった」というような釈明をしているとか。

いわばNHKの特ダネ。後追い記事が新聞にどう出るかを期待していたが、きのうの保安院の記者会見を伝えるのみ。抜かれるとそれを過小評価するというマスコミの悲しき性。

共同通信が記者会見の模様を配信し、それを記事にした新聞もあれば読売も書いていたかな。そして藤村官房長官の会見も。
「当時の関係者の記憶をもとに作ります」みたいな言い訳。

朝日新聞は3・11当日からの官邸の混乱ぶりを続き物で書いている。ポロメテウスの罠という欄で。菅のノートがあった。福山副長官のメモもあった。寺田補佐官のノートもあった。それらを元に当時を振り返っている。

議事録は事務局担当。それはそうだけど、なぜちゃんと作れと指示しなかったのか。

やはり思う。あの政権には危機管理能力が皆無だったのだと。

対策本部の議事録が無い。諸外国の笑い物だろう。なにがどう討議され記録されたか。歴史的な人類の証明なのに。

会社で取締役会の議事録がなければ、株主から追及されるだろうし、社会はそれを許さないだろうし、監督官庁はそれを罰するはず。

議事録を作っていなかった政府。それを罰する手立ては無いものか。

そしてマスコミよ。もっと深く重く追及する姿勢はないものか。後追いでしっかりした記事を書けばいい。

臭い物に蓋とは言わないけれど、当時の政府とはいったい何だったのか。その対策本部の決定とやらで、多くのいわれなき避難民を出しているのだぞ。被ばくしなくてもよかったはずの被害者を出しているのだぞ。

真実を追求する。その気概をあらためてマスコミに問いたい。一回限りの報道で終わらせていい話ではないのだと。

2012年1月23日月曜日

雪の仕業か・・・

郡山にもここ数日雪が降り続いています。もちろん会津や他県の豪雪に比べたらたいしたことはないのですが。

寒いです。郡山はある意味中途半端な街。雪仕様にはなっていない。仮設の方のは申し訳ないが、屋根に雪、道路にも雪、この事務所の中はしんしんと冷えています。

コート着たまま、ひざかけ着用(笑)。さっき来たお客さんもコートは脱げませんでした(笑)。

郡山はじめ、県内の放射線量。空間線量。つぶさに見ているわけではありませんが、雪が降ってから、きのうくらいから急激に下がっています。

きょうはもっか0,59μ。一挙に0,1以上の低下。どうってことないと言えばどうってことない。低いに越したことはないのだけど。

なんで下がったのと聞けば、「雪が遮蔽した」とか「雪が放射能をくっつけて落ちたから」とか。そう、放射能雲、プルームのような状態で地表に落ちたとか。

雪と放射能の関係について“専門家”のコメントはどこからも聞こえませんが。

じゃ、雪とともに地表に落ちた放射能はどうなるの。土壌汚染が大きくなるの。
いやそうじゃない、側溝に流れて下水処理センターに行く。そんな素人談義も。

じゃ、雪遊びも出来ないじゃないのという声も。ハウス栽培じゃない野菜に影響でるの。わからない。

ビキニ環礁の水爆実験。多くの放射能が日本列島を覆いました。いまほどメディアが“進歩”していない時代だったけど、「表で雨にあたってはいかん、雪にあたってはいかん」と親から言われた記憶あり。

雪の日は多くの人は傘をさしません。フードか帽子。また外出から帰ったら「パタパタ」かい。

側溝で流れていくのか。雪が止んで地表が乾いて風が吹いたら飛散するのかい。

空から降ってくるものの仕業。わからない。

ま、どっちにしても、どうってことのない話なんですが。

浪江の採石場の汚染問題。郡山の建築会社にも問い合わせしきりとか。「まさか使ってないでしょうね」と工事中の発注者。

県知事は相変わらず「国のせいだ」と。去年の5月に国に基準示せと言っていたのにと言い訳三昧、転嫁。地元のことは地元が一番気にしろよ。

雪はまだまだ降るとの予報。さっき野良猫チャンが雪を舐めていた。いい風情なのに・・・・。

2012年1月22日日曜日

「CMの話」続き

去年の年末に5分30秒、330秒というとてつもなく長尺のCMがあったという。
最近知りました。ソフトバンク。白戸家の物語。

15秒でおなじみのCMをつなぎ合わせ、スマップに橋渡しする物語。そう物語です。

宇宙飛行士の古川さんに触発されたお父さん犬が宇宙に行く。

「2011年、いろんな事が起きすぎた特別な年」。「大切なものを考えさせられた年」。

宇宙遊泳中のお父さん犬はサンタさんに出会います。地球にプレゼントを届けに行くサンタさんに。サンタさんはスマップ4人に一通のクリスマスカードをとどけます。一人一人が読みあげます。アベ・マリアの曲に乗せて。

「逆境に立たされている時、私たちはこう思う。火事場のバカ力が発揮されるなんて願っても無いチャンスなのではないか。
逆境って楽しい、目の前にある大きな壁が立ちはだかる時、私たちは、この壁をとり壊そうと思う、何色に塗ってやろうと思う。壁って楽しい。常にポジティブシンキングであることをバカにする人もいるかもしれない。だから、私たちはバカと思われることも楽しいと思うから性質が悪い。
めげないって楽しい、あきらめないって楽しい。背伸びって楽しい、努力って楽しい。
これから先どんなことがあろうと、何と言われようと、ニッコリ笑って、山積みされた無理難題に、ただ取り組んでいくだけだ。いつもこう思いながら。努力って楽しい。努力って=楽しい」。

こんな4人の語り。

この長尺の5分30秒のCMはテレビ東京で一回放送されただけだという。一回だけの特別なCM。それが今のテレビのある意味“限界”かも。

昨日の話といい、きょうの話といい、CMは時として時代に向けて大きなメッセージを放つ。
既存のCMの概念を越えた、もっともCMらしいCM。立派な番組。いや、時として、短い時間にメッセージを凝縮させたCMの方が“番組”よりもより“番組”らしい。

昨今のテレビを見ていて、時には挫折しかかったけれど、「CMは時代を切り取る文化だ」。そんな持論を持っていてよかったかも。

2012年1月21日土曜日

CMというメッセージ

いまさら言わずもがな、震災後、原発事故後、テレビからCMが消えました。当然でしょう。
そして数日したから“復活”して来たのはACの♪ポポポポ~ン♪。そしてサントリーの何十人もの歌手による“見上げてごらん夜の星を”のリレーソング。

CM界は大震災という悲劇を機に変わろうとしているようにもみえます。変わろうとしていないものもあるけど。うるさいものが少なくなった。あのキャンキャンわめいていたジャパネットタカダの社長さんだって、静かに“未来”をと語っているように。生保もハウスメーカーも。基本的には15秒、たまに30秒で流されるCM。コマーシャル・メッセージの名に相応しく、メッセージ性を強め、時代を表現しようとするクリエーターの“努力”が感じられる物がある。
そして、もったいないようなCMも。正月の箱根駅伝。サッポロビールのCM。これは凄い。村上春樹にコピーを書かせ、仲間由紀恵がナレーション。
テーマは「走ることについて語ること」。一回だけの放送だとか。

長くなるけど、そのメッセージを。

「痛みは避けられない。でも苦しみは自分次第だ」、あるときそんな言葉を覚えた。そして長距離レースを走るたびに、頭の中でその文句を繰り返すようになった。きついのは当たり前。でも、それをどんな風に苦しむかは、自分で選びとれる。サファリング・イズ・オプショナル。へこたれるもへこたれないも、こちら次第。苦しいというのはつまり、僕らがオプションを手にしているということなんだ。
僕やあなたのような普通のランナーにとって、レースで勝ったか負けたか、そんなのは大した問題じゃない。自分の掲げた基準をクリアできたかどうか、それが何よりも重要になる。判断はあなた自身に委ねられている。自分の中でしか納得できないものごとのために、他人にはうまく説明できないものごとのために、長い時間性をとってしか表せないものごとのために、僕らはひたすら走り、またこうして小説を書く。
やっとゴールのマラトン村にたどり着く。炎天下の42キロを走り終えた達成感なんて、どこにもない。頭にあるのは「ああ、もうこれ以上走らなくてもいいんだ」ということだけ。村のカフェで一息つき、冷えたビールを心ゆくまで飲む。ビールはもちろんうまい。でも、僕が走りながら切々と想像していたビールほどうまくない。正気を失った人間の抱く幻想くらい美しいものは、この現実世界のどこにも存在しない。
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんな形の、いろんな大きさの雲。それらはやってきては、去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの客人に過ぎない。通り過ぎ、消えていくものだ。暑い日には暑さについて考える。寒い日には寒さについて考える。つらいことがあった日には、いつもより少し長く、少しきつく、一周余分に走ることにしている。そしてあとにただ、空だけを残す。
4本分です。大学の陸上部の選手たちとか、子供たちとか、42,195キロを走り切った選手の表情とか。映像も上手いのです。そりゃそうだ是枝裕和の監督作品。

CMのコンセプト。「それは、困難な道のりを越えて走り続ける日本の皆さまへの心をこめたエール」と。

今夜の晩酌は、とりあえず(笑)サッポロ、エビスにします。100メートルも走れない身だけど。

2012年1月20日金曜日

「えんぴつ」のことあれこれ

今年の芥川賞受賞者、田中慎弥さん。作品名は「共喰い」。もちろん、作品はまだ読んでいませんが。
39歳の彼はパソコンも携帯も持たず、原稿は手書き。2Bの鉛筆でカレンダーの裏になどに下書きして原稿用紙に清書するのだという。物ごころつく前から今まで、毎日本を読んでいるとか。だから書き出すと蓄積されていた言葉があふれだして小説になるという。

2Bの鉛筆に原稿用紙。おもしろい奴だと思っていたら、受章会見がこれまた面白い。まるで「人を喰った」ような会見。
彼の受章会見と相前後して選考委員やっている石原慎太郎都知事も会見。「選考委員はもう辞めた。刺激的な作品がなさすぎるから」と。それを知ってかしらずかの田中さん。「都知事閣下のために賞を貰ってやった・・・」。場外バトルというわけでもないが、両方とも名前に「慎」の字があって・・・。

朝日新聞の社内報か編集局報だったか。「鉛筆」という名前だった。今でもそうかもしれないが。一回寄稿したことあるからその名前を知っていた。原稿はボールペンで書いたけれど。たしかに昔の新聞記者は鉛筆でザラ紙に原稿を書きなぐっていた。机の上にある筆立てには削りたての鉛筆が山のように揃えられていた。今、記者会見みても、記者の机の上にあるのはパソコン。指がなめらかにキーボードの上を行き来している。メモ帳がわりにICレコーダー。

子供のころの筆記用具は鉛筆、色鉛筆。肥後の守というナイフで鉛筆を削った。時々指先を切る。痛かった。出てくる血を舐めて抑えた。ナイフは怖いと思った。今の子供たちは多分鉛筆削り機。ナイフの痛さを知らない。安全のために親も先生もナイフは持たせない・・・。

美空ひばりの多分最後のステージ。昭和63年広島。生きている間にどうしても歌いたかったという曲。題名は「一本の鉛筆」。作詞は松山善三。

あなたに聞いてもらいたい、読んでもらいたい、歌ってもらいたい、信じてもらいたい。
一本の鉛筆があれば、私はあなたへの愛を書く、戦争は嫌だと私は書く。
あなたに愛をおくりたい、あなたに夢をおくりたい、あなたに春をおくりたい、あなたに世界をおくりたい。
一本のザラ紙があれば 私は子どもが欲しいと書く、あなたを返してと私は書く
一本の鉛筆があれば、8月6日の朝と書く、一本の鉛筆があれば人間の命と私は書く。

鉛筆に託した反戦歌。

震災後、被災地の子供たちに多くの鉛筆が送られたという。その鉛筆を持って、子どもたちは、「3月11日の午後」と書くはず・・・。

2012年1月19日木曜日

♪異国の丘♪

まだまだ冬枯れの日。寒さが続いています。きょうは、たまたまか。日差しが暖かい。暖かいとほっとする。でも、日照時間は短い。
仮設のじいちゃんが歌をくちずさんでいた。♪異国の丘♪

~きょうも暮れゆく異国の丘に 友よつらかろ 切なかろ
 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 帰る日もくる 春がくる~
~きょうも更けゆく異国の丘に 夢も寒かろ 冷たかろ
 泣いて笑ろうて 歌って耐えりゃ 望む日が来る 明日がくる~
~きょうも昨日も異国の丘に 重い雪空 陽が薄い
 倒れちゃならない 祖国の土に 辿りつくまで その日まで~

戦後。ラジオからはこの歌が毎日のように流されていました。ラジオを聞いてか、大人たちが歌っていたからか。亭主はこの歌を覚えてしまっていました。そして多分歌っていたんだろうと思います。

シベリアに抑留された兵士が作り、励まし合い、帰国してからも歌ったものだということです。
子供心にも何か訴えてくるものがあったのでしょう。忘れていた歌を思い出しました。そして歌えたのです。そして悲しく口ずさむ歌なのです。

ちょっと歌詞を置きかえれば、異国を異郷に、祖国を故郷に。原発から避難している人たちの心情をそのまま現わしているような気がするのです。いや、そのものなのかもしれません。

戦後を引きずっていた中学生の頃。国語の宿題で「私の自叙伝」というのがありました。亭主も戦争体験、戦火から逃げ回った時のことなど思い出し、それなりに書いて提出しました。文集みたいなものが出来上がった時、愕然としました。転校してきた同級生に金沢靖子さんという人がいました。ものすごく勉強が出来る人でした。でも、寡黙な人でした。卒業以来会ったことはありません。その金沢さんは満州からの引揚者でした。引揚体験を綴っていました。その文章力は同級生の亭主を思いっきり泣かせました。

街の光景は違っています。津波にさらわれたところを除いては。食べ物も十分にあります。

でも、誰が何と言おうと、平成23年。再び日本は戦後を迎えたのです。戦後だったのです。今も戦後なのです。第二の敗戦なのです。
その頃、こんな歌も流行っていました。♪誰(た)れか故郷を思わざる♪

平成の“抑留者”。引揚船はくるのでしょうか。海が隔てているわけでもない。たった数十キロの故郷。それがあまりにも遠い・・・。

2012年1月18日水曜日

スポーツクラブを辞めてみた

長い間通っていたスポーツクラブの退会届を出してきました。久しぶりに訪れたクラブは懐かしくもあり、後ろ髪ひかるる思いでしたが・・・。

3月11日までは週に2,3回通っていました。3月15日にはあるプログラムの予約も入れていました。
ジムで。プールで出来た友達もたくさんいました。入会を誘ってくれた親友も。

震災後―――ジムに行く気にはなかなかなれませんでした。あとから聞いた話ではジムは一部ながら3,14には開館していたそうです。驚きでした。
そして会員さんが来ていたそうです。なんで風呂が入れないのと文句を言っていたということです。

震災後三カ月以上経ってから、顔を出してみました。顔見知りに言われました。「放射能が怖くて東京に逃げていたっていうじゃないの。会費無駄にしてるなんて金持ちだね」と。怒る気にもなれませんでした。その人たちに言っても仕方ないけど、ジムに行く時間があれば避難所に行きたかった。

「お~生きていたんだ、会えてよかった」。声をかけてくれた“仲間”たちとの再会は嬉しかったです。スタッフも代わった人もいましたが、温かく迎えてくれました。

それぞれが、それぞれの環境の中で、出来ることをやればいい。何をしたっていい。日常であることが、普通であったことがいい。亭主はそう思っています。
震災直後も、今もかわりません。

それから、また一月くらい後、体を動かしてないせいか体調が悪く、思い切ってジムにいきました。プールの脇にあるサウナ。そこは世間話のたまり場です。

「原発避難者は仮払金もらって遊んでばかりいる。何億という金持っていて郡山の銀行が驚いた。酔っ払ってタクシーの中に忘れた財布の中は一万円札が帯封ついたまま入っていた・・・」。

噂話をさも事実のように断言していいまくる。それに相槌を打つ。その会話に嫌気がさしてしまい、逃げ出しました。郡山の取るに足らない一場面ですが。それも真実。

その後「休会届」を出しました。居心地が悪すぎるのです。そして頸椎ヘルニア。こりゃ辞めるっきゃないや、それが結論。

運動はするつもりです。足腰弱ってはしょうがないから。だから表を歩きます。寒い日には寒さを感じ、春は草花を眺めながら。暑いときは汗かきながら。

家の床に毛布敷いてストレッチします。腕立てと腹筋とスクワット。その気になれば家でも出来る・・・。

ゴルフクラブを捨てて鍬に持ち替えよう。ふとそんな気分になったもんで・・・。

でも、ジムの仲間との年に数回の飲み会には参加します。幹事さんとそういう約束したから。

2012年1月17日火曜日

仏者も苦悩している

郡山の古刹の住職と酒を飲み語り合いました。昨夜。真言宗室生寺派の寺。
その寺にはゼビオの先代社長、創業者の諸橋廷蔵さんや児童詩誌、青い窓の創刊者、佐藤浩さんもねむっています。

彼は生粋の郡山人。まだ40代の若さですが、幅広く活動しています。震災後にひょんなきっかけで知り合いになり、今度ゆっくり話そうという約束が実現。

だれそれはどこのなんとかだとか、だれそれは先輩だ、後輩だとかの郡山特有の世間話からはじまって・・・。

初対面の時、亭主は彼にぶつけてみました。「震災後、あまりにも仏者が発する言葉が無さ過ぎる。仏者は沈黙の中に隠れているようだ」と。彼はうなずいて亭主の駄弁を聞いていてくれました。

そして昨夜。彼は答えを用意してきてくれたのでしょうか。静かに語り始めました。「震災後、相馬から南三陸へ言った。その情景を見た時に発する言葉が無かった。そして思った。自分は生かされている者だと」。

知り合いの僧侶を失い、壊滅した寺も多い。知り合いで。

「あれだけ一瞬にして奪われた命を見た時、それに出会った時、やはり仏教のあり方を考えた。死者を供養することだけが使命ではない。生き残った人たちに対して、生かされた命としてある自分が何をすべきか・・・まだ悩んでいる」と。

彼は若手の仏教者とともになにがしかの支援物資を持って避難所だったビグパレットに行ったそうです。館長が持ってきた物資の数を訪ね、「ここには今2千人以上の避難者がいる。その人たちに公平にいきわたるような数ではないと受け取りにくい」と。館長は県から派遣されてきた職員です。彼は行政の在り方について甚だしく疑問を持ったそうです。公平・公正という考えは何なのかと。

そして、死者への供養の経を唱えるのではなく、生きている人たちと語りあう言葉を捜している、それに苦悩していると言っていました。

瀬戸内寂聴はツィッターで毎日、機械的の言葉を羅列している。玄有宗久氏はメディアに露出して、さまざまな事を語っている。それらに感化されながらも、向かい合って喋る言葉を、生きて行くために手助けになる言葉を語りたいと模索している・・・。

「今度、若手の仏者達の集まりに来てください。話をしてください」。今朝、彼からの電話。もちろん快諾です。

東北人は信心深いのです。死者への勤めと生者への勤め。仏者に課せられた大きな課題です。

きょうは阪神淡路大震災の起きた日。あれから17年。福島県からも多くの人が彼の地に向かい、暗闇の中でろうそくをともし、犠牲者の霊に祈っていました。皆泣いていました・・・。

間もなく午後2時46分。神戸の地から東北へ向けての黙とうと祈りがささげられるそうです。

当事者同士でしか分かち合えない悲しみ。生者は分かち合うことで悲しみや苦しみを半分に出来る。そして、つながりと絆が生まれる。

バーゲンセールのように、安売りされているような「絆」という言葉や文字。本当の絆がある場所もある。仏者としての絆を求めて苦悩している僧もいる。

住職は檀家から「方丈さん」と呼ばれているらしい。

阪神淡路大震災後、亭主は新聞のコラムに書いた。「大震災と方丈記」。
玄有さんも今書いている。無常を生きる。大震災と方丈記というようなサブタイトルで。

次回は方丈さんに方丈記を勧めるの記なんてのがあるかも。

2012年1月16日月曜日

物事は人で決まる

すべて物事の成否は人で決まる。そう思いませんか。

その時、誰がその職にあったか。そして何をしたか。それが成否を分ける。
残念ながら今、我々はその「人」を得てない。

きょうも寒いです。冷えています。一部の仮設住宅では断熱装置はもちろん無いし、あげく水道管凍結。水が出ない・・・。またも水不足なんて。

東北でも北日本でも雪が降って凍れば水道管が凍結する。当たり前です。みんな知っています。

たしかに急ごしらえだったことは認めます。仮設住宅。どこの誰が建てたかによってその仕様が異なる。まともな地元の業者だったり、「建築確認」をする役人がまともならば、ちょっとだけ想像力があれば、冬になれば水道管は凍結して水が出なくなる。そのことに意を用いたはずです。

皆、いい加減なことばかりやっている。行政も一部業者も。根本にあるのは「人」の問題。

震災と原発事故で打ちのめされた大人たちの多くは、今日の事、明日のことを考えるのが精いっぱい。夢や未来をなかなか語れない。変わって多くの若者が、それは成人式の挨拶にも見られるように、未来を語り、あえて生まれ育った地にとどまり、その地を立て直すと語る。

高校三年生はあえて被災地大学を選び、その地で自分を役立てようと決意した。

若者は変わった。変わろうと決意している。大人たちは変わることに戸惑い、変わることを恐れているようにも見える。

若者にこの国の将来を、未来を託したい。

希望や熱意を持った若者たちの志を打ち砕く大人の仕業。大学センター試験の不始末の数々。センター試験の結果はその子たちの将来を左右することにもなりかねない。
不始末、不手際。すべて「想定内」の事である。現場での対応、それもちょっとした想像力があれば対処する事が出来ること。

センター試験に携わった人たちの資質が子供たちの人生の成否を決めてしまうかも知れない。

悔しい出来事である。

二本松の避難者用のマンションで使われた資材が汚染されていた。これだって人災。国に基準のあるなしでは無く、想像力を働かせれば防げたこと。
申し訳ないでは済まされない。

成否は人が決める。あらゆる意味でも。科学だって人による。

イタリアでの豪華客船事故。船長はいち早く逃げたという・・・。

「人間力」。さらに考え続けねば・・・・。

2012年1月15日日曜日

防災無線、聞こえてますか

昨夜の「闇鍋会」(笑)。いや決して闇鍋じゃないのですよ。暗闇で作った訳でもなく、各人が食材を持ちよったわけでもなく。ちゃんとした料理屋さんのよせ鍋。野菜、鶏、エビ、ふぐ・・・。

月に一回の日本酒飲む例会。亭主はどうも魚介類の入った鍋が苦手でありまして。メニュー聞いた時にはぶっとびました(笑)。魚介類が作り出すあの甘さがどうも苦手。ホタテやカニが入っていたら・・・。

で、勝手に闇鍋と言ってしまったんですが。それで皆が盛り上がり。「長靴は入っていないのかい」とかなんとか。

で、その席での話題。きっかけがなんだか忘れましたが。

「防災無線」の話に。そうだ、きっかけは郡山市民の歌だった。歌の話の延長線で。

郡山の防災無線。朝は7時に「歓喜の歌」のメロディー。昼は「郡山市民の歌」。そして夕方6時は「カラスと一緒にかえりましょ」。

これって、表にいないと聞こえないのです。建物の中では聞こえない。夕方6時、たまたま事務所を出て帰ろうとすると聞こえてくる「夕焼け小焼け」。それが終わると女性の声でなにか放送している。さっぱり聞き取れない。音が乱反射というかハレーションを起こしてしまっていて。女性のゆっくりしゃべる声がやまびこのように聞こえるだけ。

阿武隈川沿いに住む人が言いだす。「去年9月の台風の時の水害、防災無線は全く聞こえなかった」と。
本宮に実家がある人が言う。「本宮では防災無線は外においてあるのではなく家の中に各戸引きこんでいる。そこから聞こえる」と。え、それって無線じゃなくて有線放送じゃないの?とか。

大震災、大津波時、最後まで防災無線のマイクを話さず命を落とした南三陸町の遠藤未希さんの事を思い出す。街中に広がる彼女の声はしっかり“録音”されている・・・。
しかし、被災地では防災無線は聞こえなかったという人が多い。東日本大震災だけでなく、たとえば和歌山を襲った台風の時もそう。

多額の経費を投入し、音だけは出るようになっている防災無線。ちゃんとつけていますよっていう行政の防災対策の言い訳材料に過ぎないって切って捨てたくなるような。

音声のデジタル化やスピーカーの増設、設置場所。改善の動きはみられるようですが。

郡山には津波はこないけれど、いつどんな災害がおこるかわからない。阿武隈川の“決壊”然り。豪雨の音にかき消される防災無線の音。保守点検がされておらず、機能してないものもあるとか、あったとか。

防災無線て「気休め」なのか。もう前時代的なシステムじゃないのか。テレビ、携帯、パソコン。あらゆる機器を駆使しての防災告知システム構築する時じゃないのかと。

南海地震の確率は88%と地震研究所が発表してるわけだし。

夜、消防車がキンコ~ンと鐘を鳴らして火の用心に回っている。その音だって風向きによっては聞こえない。

口コミにも限度あり。

有効に機能する防災無線システムの確立。どこへ逃げろってアナウンスも含めて。それって大事なんだとあらためて思う。遠藤未希ちゃんの霊にこたえる言いでも。
我が家の数百メートル南側にあるお寺の脇に備えられている消防団分室の上にそびえている防災無線のスピーカー4っつ。複雑な思いで散歩している犬と一緒に見上げる・・・。

闇鍋会(笑)、参加11人中半数が風邪。風邪でドタキャンの人も。流行っているようです。お互い注意しましょう。

「徹底したうがいで乗り切っているんだ」といつもの蘊蓄おやじ。帰りの代行の運転手さん、「ベロを歯磨きと一緒に洗うといいでしょ」。

頼りない防災無線じゃないけれど結局は「自己防衛」かい。

2012年1月14日土曜日

「敵は」・・・・

かつて戦国武将達は領内を安堵させるために、自らの領土、藩の結束を図るために敢えて外敵を作り、その敵と戦うことで内の乱れをなくそうという戦略をとっていた。

かつて、いや、今のそうかもしれないが、中国は、中華人民共和国と言った時代、外敵、特にアメリカを名指しで非難して内なる結束、十億の国民の結束を保とうとした。外敵に目を向けることで、内なる失政を覆い隠そうとした。

「敵」。それの定義は難しい。

野田改造内閣発足。記者会見の方向は政局がらみのものばかり。野田にとっての内なる敵は小沢一郎という前提にたって、解散・総選挙をにらんでの質問に終始していた感のあるメディアの立ち位置。視点。
そして今日の紙面。「消費税増税シフト」の大見出し。記者会見は議論の場ではないが、消費税や政策に関しての質問がどれだけあったのか。

小沢との対比がそれほどこの国を語るために必要なことなのか。民主党内はギクシャクしている。その一因には消費税の扱いはあるものの、メディアがすべてに小沢を持ち出すことにある。

野田は内なる敵について言及しない。野党も外なる敵としない。

消費税増税。自民党も言っていたこと。しかし、自民党の首脳と言われる人達は法案に反対だという。中味ではなく、手続き論やマニフェスト違反だという愚にもつかない論理を持ち出して。そして、あからさまに民主党を敵対視するような言辞を弄する。自民党内の「結束」を強めるためだからだろうか。

政局を好むメディア、それに乗る政治家。2011年はもはや過去のことのような。

永田町で「敵」を作り合い、それを攻撃することが、どれほど被災地に資しているのか。

福島に移住してきた“田舎暮らしライター”は、こんなことを言っている。「今回の事故で一番痛感したのは温度差だ」。「築きあげたコミュニティーが崩壊していくのを黙って見てはいられない」と。そして彼は言う。「敵は放射能じゃない。情報災害が生んだ差別と偏見だと思う」と。

会津の雪は例年より多いという。深いという。浜通りから避難しての仮設住まい。仮設が設置された場所は市街地ではない。ただでさえ降雪量の多い山の麓。

仮設の人達は、経験したことが無い大雪と言う“敵”との過酷な戦いを強いられている。そして“共存”の仕方を学んでいる・・・。

2012年1月13日金曜日

何も起きなかった日

きのうはなぜか地震が多かったような。気持ちよくないです。

郡山の児童詩誌「青い窓」。2007年に掲載されて当時小学校6年生だった平田村の女の子の詩があります。題名は「ありがとう」。

  「よかった。」今日も、一日何もおきなかった。人間、生きている限りいつ、       何がおきてもしかたがない。 だから、私は今日、一日何もおきなかったことに  感謝したい。 そして神様にありがとう。

大震災後に詠まれた詩と錯覚してしまいそうです。

何もおきなかった日、何もなかった日、なんでもない日。

デズニーの不思議な国のアリス。アリスが迷いこんだ不思議な国。そこでは「何でもない日、お誕生日じゃない日のお祝いが行われていました。

「きょうは何のお祝い?そう聞くアリスにおじいさんが答えます。「お誕生日じゃない、なんでもない日のお祝いだ」と。そしてみんなで歌います。
「何でもない日おめでとう、なんでもない日バンザイ。こおもりさん、おぼんおように空を飛ぶ」って。

青い窓に「ありがとう」って詩を書いた関根照美ちゃんも、もしかしたらデズニーのフアンだったのか。
何事も無かった日、何でもなかった日、たしかにバンザイなんです。地震が無い日バンザイなんです。

なんでもない日、特別じゃない日、なんでもない人たちが、なんでもない事だと思って、当たり前の事をやる。

おじさんも「大きな懐中時計を持った白いうさぎ」を追いかけて、置いてあった瓶の中味を飲んでみようかな・・・。

だめだ。瓶の中味は酒だった。だからなんでもない日に、なんでもない毎日、酒を飲む・・・(笑)

2012年1月12日木曜日

みゆチャンが帰ってきた

近所に「みゆチャン」と「かこちゃん」という二人の幼い姉妹がいます。

まだ就学前。とてもオシャマで可愛い子で、縄跳び遊びを覚えたばかりでした。
「ねえ、ねえ、ねえ」と縄跳びを迫られていました。たでさえ体力ないのに、子供の縄でとぶというのは大変なこと。背中丸めてとばないと。3回がやっと。

おかあさんと二人の姉妹は、原発事故後しばらくしてから、おかあさの実家がある愛知県に避難していました。仕事のあるお父さんは一人暮らし。お正月も一人で郡山にいたみたいです。

いつも近所にいる子供がいなくなる。さびしいことでした。

きのう、そのみゆチャン姉妹が帰ってきました。ちょっと気恥ずかしそうな表情のお母さんと一緒に。

帰ってきてくれてありがとう。また会えてよかったよ。こころから歓迎しました。

でも、今まで通りに表で遊ぶのかどうか。わかりません。縄跳びをせがまれるのかどうかわかりません。でも、いるべきところにいるべきひとがいる。

昨夜のそのお宅の灯りは妙に明るく感じられました。雪が降ってはいたけれど。

3月11日の地震の時、みゆちゃん母子は「モール」というスーパーにいました。屋内駐車場の屋根が崩れ落ち、車はペシャンコ。何キロもの道を母子は歩いて帰ってきたそうです。車はもちろん廃車。

お父さんは前と同じような車を買って帰りを待っていたようです。

表では遊ばないでも、近所の子供たちと一緒に、屋内の遊び場に行くことが出来ます。新しい車で。

みゆチャンはちょっと大きくなっていました。半年の間にみゆチャンのこころにどういう変化があったかわかりません。
3・11の前にような「普通の生活」にもどれるかどうか。わかりません。

我が家の周りの線量。最近は馬鹿馬鹿しいので測っていませんが、郡山は0,7μシーベルト前後。年間1ミリを大きく上回っています。

おそとが大好きだったみゆチャン。我慢しようね。優しいお父さんとまた一緒に暮らせるのだから。

いつになるかはわからないけど、みゆチャンとまた縄跳びが出来るようにセガワさん(みゆちゃんはそう呼びます)は体、鍛えておくぞ。

2012年1月11日水曜日

普通のことを普通にやる

普通。あらためて辞書を引くと「ひろく一般に通ずること」「どこにでも見受けられるようなもの、並み、一般」とあります。

大震災後、原発事故後、「普通の暮らしに戻りたい」という声が多く聞かれました。避難所の中で、仮設の中で、放射能に脅えて暮らす人たちの中で。

普通という言葉は、普通一般に日常使われている言葉ですが、あらためてその言葉を考えてみると凄く難しい言葉に思えてきます。

日常という言葉に置き換えることもできます。たしかに、3・11以前にあった日常を失ったひとばかりだったから。
だから「普通の暮らしに戻りたい」と切望するのでしょう。

じゃ、普通の暮らしとは何でしょう。普通の暮らし。それは大金持ちでもなく、際立って貧乏でもなく、そこそこの仕事に就き、一日三食を食べ、自分の寝床でやすらかに寝り、たまに酒を飲み、歌をうたう。家族で憩う。そういう一般市民的、庶民的生活。

飼い犬や飼い猫に餌をやり、日の出に感謝し、夕日に涙するそんなおだやかな日々。それが普通の生活だったかもしれません。

「ほだげんちょ、ふくしまの米、桃、りんご、梨、柿、野菜、人も生きてる」

ほだげんちょ、そうなんだけどという意味の方言。朝日歌壇にあった福島市の女性の句。普通の生活でなくなった、普通の人が、普通の言葉で、不条理に静かに抗議している・・・。

「普通」という言葉の反対語は「特別」でしょうか。

被災者の人たちは、やはり特別な毎日を送っているのです。非日常のままで。それを決して日常と思わせてはならない。そう思うのです。

そのために、普通に出来ること、決して無理はしないで、しゃかりきにならないで、出来ることを普通にしたいと思っているのです。

「おたがいさま」「ありがとう」。日常交わされる普通の言葉だったはず。

きょうは1月11日。あれから10カ月なんです。何にも変わっていないような・・・。

「主よ、変えられないものを受け入れる心の静かさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を我に与え給へ」アメリカの神学者、ラインホールド・ニーパーの“祈り”です。

何十年も前のノートの端に書き留めていた言葉。そんな事をするのが亭主にとての普通の暮らしだったのですが・・・。

2012年1月10日火曜日

希望の国へのエクソダス

以前もこのタイトルで書いたことがあったかもしれない・・・。

もちろん10年以上前の小説の題名。村上 龍。
経済が停滞し(今も同じ)、閉塞感の漂った(今も同じ、それ以上)日本。そんな現在社会に絶望した約80万人の中学生達がネットで呼びかけ、学校を捨てて「あすなろ」というネットワークを作り、最終的には北海道に広大な土地を購入して、30万人規模で集団移住、独立した経済圏や都市を作り上げ、実質的に「日本からの独立」を果たすという小説。

その小説の最後のページの1行。登場人物の名を借りて著者は言う。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」。

今の福島を物語るアイロニーのような・・・。

正月が明け、普段の日常が戻ろうとしている今。原発避難者が故郷に、実家に、仮設に帰ってくる話がマスコミの主流だった。束の間・・・。またもや、原発避難者の話題が数多く登場してきた。

岐阜へ避難した人。四国に「疎開」した人、九州や沖縄に避難した人・・。
福島からと思いきや、東京や神奈川の人もけっこういるという。一家で、妻子だけで。

熊本、阿蘇に避難した一家は「そこで飲んだ水がたまらなくおいしかった」という。すべてどこの何をとりあげて書くかは記者の勝手だが。

百人百様。それぞれの人の価値観がある。どこに住むのも自由である。避難と呼ぼうが疎開と呼ぼうが、単なる“形態”への表現。

生活の見通しもたたないけれど家族のことを考えて。その発想をメディアは美談として伝える。

リスクは背負わないに越したことはない。夫と離婚しての避難。離婚というリスクは影響ないのだろうか。

妻子が避難したあと一人、郡山で仕事をしている男性。大勢いる。彼らはほとんどが暗い。明るそうにしていても心が晴れていない。そりゃそうだ。疲れて帰る家には灯りがついていないのだから。ストレスですと彼はポツリと言う。
年中風邪をひき始めた。

昨日もちょっと書いたけど。若者が戻ってこない村。それは共同体としては成り立たない。あれだけ話題になった南相馬。若い人達も戻り始めている。あえてその地に戻り人のために役立ちたいという者もいる。

請戸港周辺。線量は低い事がわかった。誰も帰ろうとしない。なんとなく「村の掟」に従わざるを得ない人達もいる。だから「裸のフクシマ」を書いた川内村在住の作家のたくきよしひろは言う、「元の福島」には戻れない。戻ってはいけないと。

国は福島県のことを知らない。しろうとも、分かろうともしない。県は自治体になげるだけ。国に「お願い」するだけ。

もう住めないところは出来る、出来たはず。それを皆で認めないと。戻れるようにするというまやかしの“希望”を与えるのではなく、事実は事実と認め、「希望の国」を作ることを真剣に考えた方がいいのではなかろうか。真の「エクソダス」を。

亭主は福島県人ではない。東京人だった。いつでも東京に戻れる。でも、戻らない。避難先は引く手あまた。来い、来いと北海道の友人も言う。ありがとう。多少は被曝しているかもしれない。でも己の「免疫力」を信じている。

この毎時0,75マイクロシーベルトの地にいてよかったと確信している。なぜか。苦しんでいる人たちといささかでも向き合っていられるから。東京にいてこのブログは書けない。すべてが無責任な他人事の言動になってしまうから。

人口減少が続く福島県にいて、日本の、世界の人口減を憂い語ることも亦良しかと。

数千冊はあったであろう蔵書の中で、引越しの時に捨てずにとっておいた古本。それと「再会」出来たのも震災、原発のおかげかと。

2012年1月9日月曜日

「近頃の若いもんたちは・・・」

若いころ、よく言われたものです。「最近の若いもんたちは・・・」。続く言葉。何を考えているのかわからない。困ったもんだ。どうしようもない。

それなりに反発してきましたが・・・。

やや年をとってから、自分がそういうことを言っていました。若者世代の風潮や考えを理解出来なかった。理解しようとしたけれど、どこか受け入れられなかった。

震災後、若者を見る目が変わってきました。年をとったせいか。もちろんメディアを通して見る、知る若者像なのですが。

被災地の復旧・復興に汗を流す若者。悲劇を受け止めて、自分の為すべきことに励む若者・・・。
高校球児、サッカー選手・・・。

「近頃の若者は捨てたもんじゃない」。

きのう、県内では成人式が各所でありました。晴れ着姿の新成人。20歳の若者。原発避難地区の若者達も多くが一堂に会し。

仲間たちとの“再会”を喜びあい、故郷に戻って役に立ちたいと言っていました。

メディアが取り上げなかったのか、事実がそうだったのか。「荒れる成人式」の模様は今のところ目にしていません。

よく晴れ着を揃えられたもんだ。そんな感想は下衆の勘ぐりみたいなもの。若者達の希望や願望には「へ~~」と驚かされるものもありましたが、みんな逞しく見えた。

新成人は減っているという。少子高齢化。社会構造がどうであろうと、この若者達に未来を託さなくてはならない。

50年前。成人の年を迎えた亭主は学生でした。成人式の記憶は全くありません。仲間と言えば大学の仲間。幼馴染というのはもはや縁遠くなっていたような。晴れ着のスーツなんて無い。4年間学ランだったし。

地方での成人式。東京での成人式。規模も意識も違う。それはともかく成人式って無かったような。大学入学と同時に煙草は吸っていた、酒も飲んでいた・・・。

だからあの当時、将来への抱負や夢や希望を語ったこともない。母親がくれたなけなしの小遣いで午前中はクラシック喫茶。午後はジャズ喫茶。常に一緒だったのは大学の仲間。もちろん成人式の写真なんてのも無い。たぶんそんな時代だったのかも。「安保反対」のシュプレヒコールだけが聞こえはじめていた頃だし。その頃の思い出はいっぱいありますよ。

時代は世代間のバトンタッチだという。先人から受け継いだものを次の世代へ。いいこともあったし、悪い事もあった。

でも、今の大人は子供たちに引き継ぐものを何ほど持っているのだろう。バトンの渡し方をしらない。わからない。襷の受け渡し方をしらない、わからない。

放射能汚染の福島県。例えば飯舘村でも若者はもう帰らないと言い始めているとかいう。高齢者だけが除染された村に帰っても、共同体は復元できない。除染には大きなコストがかかる。莫大な予算を使う除染。それだけでは何も解決したことにならない。共同体を維持するためには若者が必要なのだ。三世代が必要なのだ。

震災後、多くの若者に力を貰っているような気がする。彼らを見ていると、もうちょっと頑張ろうと思う。そして10年後の彼らが何をしているか、どうしているかを見てみたい気がする。「特別な成人式」を迎えた20才の子供たち。

そして3・11に産声を上げた赤ん坊がどんな七五三を迎えるのか。それも見てみたい。そのために、大人や年寄りたちが何を出来るのか。

特別な成人式。それへの想いは複雑・・・・。せめて、せめて、あの時代に生きていて成人式をやってよかったと何十年後かに思って欲しい。
成人式の記憶が無い亭主の無念さも併せ持って・・・。

2012年1月8日日曜日

「便利さがもたらしたもの」

過日もテレビで脚本家の日本の知識人のひとりでもある倉本聡が言っていました。

「日本人はあまりにも“便利”なものを求めすぎてきた。携帯電話をはじめ。3・11を契機として変わるべきものは、もういっぺん不便なというか、貧乏だったあの頃の生活をみなおすことにある」というような論調。

たしかに、今の日本人の、いや先進国と言われる国の人達ほとんどに対していえること。
3・11以降、何かが変わる、変わるべきと考えた人に共通する歴史認識であり、価値観。

きょうは8日です。亭主が主宰する粒々塾。去年の3月の例会は3月8日でした。まさに大震災、原発事故の三日前。その時の講義のテーマが「便利さがもたらしたもの」。

震災後のブログに書いたかもしれませんが、「便利になったものは」という問いかけに大半の塾生が携帯電話と答えていました。スマートフォン持って。

じゃその便利さの裏側に何があるか考えてみようーそう問いかけました。今、我々が便利だと思っているもの。携帯にしても電化製品にしても、車にしても、オール電化住宅にしても。すべて高度経済成長がもたらしたもの。エネルギーによって生み出された快適な生活。大量生産、大量消費、大量使い捨て・・・。便利さが追求される余りに、失われたものも多いのではないか。
スピードだけをよしとしてきたのではないか。安心、安全が食を含めて言われ、生み出され、結果、人間が本来持っているべき「能力」を失ってきてしまっているのではないか。歩くと言うことを含めて。

安逸さに慣れてしまったのではないか。安閑とした生活をよしとしたのではないか。便利になったからこそ「人間力」が求められるのではないか。そんな話をしました。

そして夏目漱石の言葉を引用しました。

「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許して呉れたことがない。」

なにやら、今、この講義をしても全く違和感が無い。
4月の塾は再会を祝っての酒飲み会。皆で長淵剛を歌い、見上げてごらん夜の星をを歌い泣いて・・・。5月の塾で、もう一回「便利さがもたらしたもの」の話を持ち出し、これからの「生き方の指針」として考えてほしいと訴えました。

ちょっとでも立ち止まることを考えた塾生達の立ち直りは早かったような気がしたものです。

ふと振り返った10か月前のこと。

2012年1月7日土曜日

たまには“夢”を語り合おう

きのうのタウン誌「街こおりやま」の新年会。いろんな「市民」が集い、楽しい集まりでした。

そして、話題はほとんどが原発事故。風評被害に苦しむ磐梯熱海温泉の経営者。久しぶりに出会い。「県外からの客は無く、大変ですが、もう風評被害と叫んで、人のせいにするのをやめました。自分たちで立ち上がっていく」と。

乾杯のあいさつに立った県の医師会会長、菊池辰夫さん。「今年は私の干支、しかも私は3・11生まれ。私には夢があります。郡山の全天候型の大きな子供たちが遊び、運動できる施設をつくることです。子供が笑顔になれば親も笑顔になる、社会も笑顔になれる。すべての子供たちに笑顔が戻るようにする。それが私に夢です」と。

会が終わって親しい若者5人と二次会へ。その一人が農場経営者。彼の夢は「安心、安全な食を提供する」ということだった。その夢は原発事故で奪われてしまった。・・・そうじゃなかった。かれはその夢をあきらめていない。放射能下にあっても出来ることがあるはず。それに向かって突き進むと。その夢を彼は熱く語っていた。

彼はミュージシャンでもある。ジャズミュージシャン。「定禅寺ジャズフェスティバルのようなことを郡山でやりたいね。駅前大通りを使い、駅前広場を使い、全国からジャズミュージシャンを集めて。デキシーランドジャズをやろうよ。街中をパレードして歩こうよ」。そんな話が際限なく続く。デキシーキングなら呼べると彼。後輩にフルバンドやってるのがいる。彼らに声かけ出来ると亭主。

誰がやるか。どうするか。それはさておき、彼と語りあったのは一つの夢。夢を語り合うのは楽しい。

気仙沼市長は「F1レースを開催する」と言ったそうだ。彼のアイディアではない。市民から出されたアイディア。現実性があることだけしか行政は動かない。それを承知で言った。「将来、F1レースが開催されて、10万人の人が気仙沼を訪れる。想像したらワクワクする。実現できるかどうかではない。そんな夢の形を描くことが大事だと思ったから」。

年があらたまった。暦の移り変わり。それにはそれなりの意義があるのかもしれない。頭を低くして縮じこまっていたってしょうがない。何も始まらない。未来の夢を語り合う。それが、目先の何かを解決してくれることに役立つはず。

市民の意識は、国や行政とは無関係に変わりはじめているのかもしれない。

たまには夢を語り合おうよ。そうしましょう。

「夢」。なんて難しい言葉だろう。毎晩寝ながら見るのも夢。ここ何十年、亭主は楽しい夢を見たことがない。いつも嫌な夢ばかり。過去の映像や記憶含めて。寝て見る夢は嫌だ。でも言葉では「夢」としか言えない。

将来を語る。未来を語る。将来を想像する。未来を想像する。願望。それも字にすれば「夢」。二つの意味がある「夢」という一文字の相克。

きょうもどこかで誰かが、被災地でも、そうでないところでも、「夢」を語り合っているかもしれない。ささやかなものであったとしても。その夢の後押しを政治や行政に期待するのは無理だと思うけれど・・・。

2012年1月6日金曜日

地震が・・・

このところ地震の回数が多くなっているようです。こっち方面は。きょうもすでに有感地震が4回。昨日も震度4を含め5回。

気象庁などの発表では3・11以降の余震は7千回以上あったとか。去年1年間の地震は9、723回。前例の無いような多さだったとか。

さすが地震大国日本というか。地震列島であることを再認識というか。とにかう地震はもうたくさん。慣れも出てきてはいるけれど嫌な気分になる。

災害は忘れた頃にやってくる。寺田寅彦の有名な言葉ですが、まだ「忘れていない」。「忘れない」。だから忘れていないから来ないという事でもないでしょう。

首都東京。高層ビルの再開発ラッシュだそうです。都心は。たまに東京に行くと、まず東京駅界隈の変貌ぶりに驚かされます。

古臭い言い方のようですが「バベルの塔」の林立のような。圧倒されます。恐怖心を覚えます。あの高層ビル群。

再開発ラッシュを伝える新聞記事の下には週刊誌の広告。「すぐにくるマグニチュード8,9の大地震」の大見出し。首都圏直下型とか。

でも、最近、地震は頻発しているのになぜか鳴らない携帯電話のピピピ~~。テレビの警報音。

テレビでやってました。どっかの集まり。講演かな。聴衆の携帯電話が一斉に警報音。凄い光景でした。

いつも想像してしまう都会での大地震。地下鉄の中で一斉に警報鳴ったら・・・。
たぶんパニックになるかもとか。

スカイツリーで実証済みだけど高層ビルの安全性。でも・・・。

ここ数日の挨拶。「風邪ひいてない?」「最近地震多いよね」。

地震に慣れるというのは無理。みんな敏感になっている。
「車に水積んでおこう、寝袋買っておこう」。そんな会話も。杞憂であること願うのみ。

こう書いてはいるものの亭主はいたって地震に鈍感。世の中の動きには敏感。

防災グッズ、避難グッズはたしかに売れているらしい。

2012年1月5日木曜日

揺れる双葉郡

きょうから事務所開き(笑)。選挙事務所じゃありませんが。数日間人気の無かった事務所。寒かったです。ファンフィーターもなかなか温度上昇してくれない。コート脱げない。

ようやく動き出した世の中。さまざまな賀詞交換会などで、仕事はじめで、いろんな言葉が交わされていました。原発事故の影響はなんら前進を見せない中。

福島県知事は昨日の年頭の辞で「困難を乗り越え、希望の地に変えて行く。険しく長い道のりに果敢に挑んでいく。これからが正念場」と述べていたが。

目下の問題。除染と中間貯蔵施設。

国は双葉郡内に中間貯蔵施設をと年末に言った。きのう双葉町の町長は「反対」を。きょうは関係町村長が県知事と面談。「県主体で国と交渉してくれ」と。

これまで知事は国と関係町村との話し合いって言ってきた。それにノーが突き付けられたということか。

知事の力量が試されている。

そして双葉郡内の町村が揺れる。状況はわかっていても「うん」とは言えない町長の苦悩。

年が明けて、あらためて迷路にはまりこんだような・・・。

「民、百姓を安堵すべし」。藩主に託された使命、天命。

今年から本格的除染活動を始める。郡山市長も宣言していたが・・・。貯蔵問題が解決しないと除染だって進まない。

どうする国、どうする県。


きょう、突然、事務所のパソコンからこのブロガーにログイン出来なくなり。
自宅からの書き込みと相成り候。

なんでこうなるの!!

投稿無い時はブロガー不調と思ってください。

2012年1月4日水曜日

きょうで300日

あの忌まわしい3・11東日本大震災からきょうで300日が経つという。
とても300日も前の出来事だったとはおもえないのですが。

被災した人も、避難生活を強いられている人も、そうでない人も、それぞれが、それぞれの悲しみ、苦しみ、重苦しさ、生きがい、考え、悩みしてきた300日。数字が何かの区切りにはならないのですが。

きょうは仕事初め。各所で新年のあいさつが交わされ、抱負が語られています。
少なくとも、被災地では復興、復旧が語られます。

復旧、復興。思ったことは「民」の力の強さ。一概には言えないでしょうが、行政の力のもどかしさ、頼りなさを感じた民。
たしかに行政と言うのは、あらゆる制約で成り立っています。規制でなりたっています。その中で、現場のニーズや住民の立場に立って行動しようとする人と、規律を守ろうとする人たちの間で行政マン同士の暗闘もありました。

何かが変わる。誰もが期待しています。変わる萌芽が出始めているような気がします。現状を悲観的に見るだけではなく、どうにかしなければという進取の気風が感じられる場面もありました。民を中心にして。

崩壊、復興。歴史はそれの繰り返しです。もはや経験則ではなく、歴史に学ぶということを再確認している人達もいます。

今年。少なくとも政治の世界は変わるでしょう。今すぐではないけれど。選挙があります。今までのような民主主義というお題目を掲げて、なんとかやってこられた政治は過去に追いやるしかない。

年末年始、選挙区に帰った国会議員はまともな奴なら感じ取って来たはずです。
橋下徹を中心にした「大阪事変」。変わることの萌芽でしょう。それがポピュリズム、独裁政治とそしられようとも。

原発。現在稼働中の原発は6機です。やがてすべてが定期検査に入ります。4月下旬、北海道泊原発3号機の停止をもってすべての原発は停まります。

ストレステストなるものが最稼働の条件です。しかし、そのストレステストなるものの内容や基準は決まっていません。

再稼働の目途は無いのです。

5月から原発による電力供給がなくなるのです。エネルギーに対する正念場を迎えるのです。あらゆる知恵を振り絞り、従来の価値観や生活習慣、産業構造、すべてを洗いなおしてみたら、「電力不足」は乗り切れる。固定概念や経験側を排除すれば、知恵が、民力がそれを成し遂げることが出来ると信じています。

それが出来た時、日本国民は真の復興への道についたと言えるのではないかと。

慣れ過ぎた便利な生活からの脱却。あの戦後の歴史を乗り切ってきってきたのだから出来ないはずは無いと思うのでうが。そして、それが出来た時、はじめて「日本は一つ」という意識が持てるのではないでしょうか。

もう、放射能をめぐって日本人同士がいがみ合うのはたくさんです。どこに逃げても明日は我が身。

櫂よりはじめよ。つまらないテレビは消すことにしました。テレビ局には申し訳ないけれど。寒さもいささかは我慢しています。風邪はひいてしまったけど。

我慢を強いるわけではありません。ちょっとだけ身の回りを見て考えることはある。出来ることはある。普通にちょっとだけ。
駅伝の一人1秒の努力がゴールでは10秒の差になっていた・・・。

2012年1月3日火曜日

「一時間ちょっとだけの苦しみ」

きのう、きょう、テレビで箱根駅伝観戦。マラソンも含めて、ただ人が走っているのを見るのが好きなようです。

東洋大優勝。往路の山登り。柏原竜二くん。やってくれました。新記録付きで。

「僕が苦しかったのは一時間ちょっとだけ。福島の人達と比べたら全然苦しくなかった」。

彼はいわきの高校出身。震災後「ふるさとが被災しているのに、自分は走っていていいのだろうか」と悩みを高校の監督に打ち明けたという。

今年はじめて出会った生身の人間の発する「名言」と。

昔と比べて、スポーツ選手はよくしゃべるようになった。そして、しばしば「名言」を言う。自分の言葉を持っている。持つようになってきた。たぶん、教えられた通りにやれという「教育」から、「自分で考えろ」という教育に変わってきているからだろうか。

練習に苦しみ、もがき、時には自分の行き先さえ見失ったりすることもあるだろう。それを乗り越えて来た彼ら。駅伝でもそう、サッカーでもそう。チームプレーをやってきた人間には他を思いやる心根がある。

そして「走る」ということの意味は「走って来た」やつにしか分からないものかも。

亭主の年ではもう走れない。100メートルも。すぐ断念する。

走り切った若者から教えらることは多い。こんな若者がどんどん育ってほしい。

先人から受け継いだものを次の世代に譲り渡す。世の中の在り方は確かにそうだ。でも、今の大人達は若者に譲り渡す仕方がわからなくなっているのかも。

受け継ぐものがわからない若者達は自分達で考え立ち上がる。政治の世界とて然りかも。
悲しいことのようだが、若者から学ぶことが多すぎる。我々世代は若者に何をのこしているのか。国の借金だけ。そう答えてしまうのも悲しい。

箱根駅伝。亭主の母校すれすれ8位。シード権獲得。最終ランナーは失神寸前でのラストスパート。俺にはあんな根性無かった。

それにしてもー。今のスポーツ選手は皆「綺麗、端正」な顔をしている。イケメンという奴か。草食系男子だっていいじゃないか。その方が人に優しくできる男なのかもしれないし。

高校サッカー、尚志学園が今リードしている。郡山の学校。勝ってほしいな。

走りたいけどもう走れない人たちのためにも。苦しいのはたった90分だけだぞって言いながら応援中。

2012年1月2日月曜日

皆、言葉を探してた

やはり年賀状がドサっと来ていました。有難いです。一年に一度の消息確認。
亭主は今年から賀状御遠慮宣言をしたのに。

なんか申し訳ない気分。しかも先輩から戴いたとあっては。亭主が出さないのを承知で、「俺は生きてるぞ」を伝えるために出すという友達も。

私事さておきながら、今年の年賀状。あけましておめでとうという言葉が少なくなりました。

絆という一文字や希望という二文字とか。せいぜい賀正、謹賀新年。冒頭から、今年もよろしくお願いします、というのも。

年賀状に何をどう書き、どういう言葉をちりばめるのか。みなさん苦労されたのでしょう。今年の年賀状ほど。言葉を探した、言葉に悩んだ年は無かったかと。
それは、県外でも県内でも同じような。
そして一様に「心配」してくれている、「気にかけていてくれている」。「何もしなくて、出来なくて・・・」という文言も。

地方のテレビ局の恒例。年賀スポット。15秒テロップ。そこにもほとんど明けましたおめでとうございますよいうアナウンスは無いようです。

やはり、「目出度い」と言う言葉に皆戸惑いを感じていたのでしょう。
言葉が不自由な時代。いろんな意味でそんな感想が。

元日の午後の地震。揺れ方が3・11に似ていた。震度4。「おいおい、正月くらい勘弁してくれよ」って心境。

夜、我が家に数人が集まり。3・11にどうしていた、何してたの振り返り話し。嫌な話だけど、共通体験を語ると妙に落ち着く。

さてと、年賀状や年末の御挨拶戴いた方にどう返信するか。亭主も言葉探ししないと・・・。

2012年1月1日日曜日

年初、始まりと・・・

暦が変わりました。新しい時の扉が開かれました。
夜をまたいで、特別に何かが変わったわけどはないけれど。

郡山はちょっとだけ朝日が顔を出していました。

「あけましておめでとう」。そんな言葉が飛び交っているでしょう。
おめでとう。その感覚は残念ながらうまれません。「がんばろう」とおなじ、単なる「挨拶」。こんな年明けに交わす言葉を我々は持ち得ていなかった。交わすべき言葉を知らないから。

実情は、実態は、放射線量は何も変わっていなくても、どこかにやはり区切りが必要。区切りの意味で新年を歓迎する。

囚われ人のようになっている福島県民は、寒空に一呼吸して、気持ちを新たにして、檻を破ろう。檻から出よう。

独立国「福島」を作ってもいいじゃないか。もっともその盟主は今の知事であってはならないが。新たな盟主を担ぎ、楽園を目指そうではないか。

今年の干支。壬辰。じんしんと読む。十干十二支では。「従来の社会の仕組みが変わる端緒が切られる年」だと言われる。60年前、対日講和条約が調印され、戦後から脱却する社会の端緒が切られた。その歴史を思う。

60年間の政治。今ほど政治が混迷し、国民から信頼されない状況になったのははじめてかもしれない。二大政党論は誤りだった。そうでしょう。民主党政権がダメだからと言って自民党に期待するという人もいない。
消費税論議にしても然り。消費税引き上げに自民党は反対だという。自分たちがいち早く言いだしたことなのに。10%引き上げを。なぜ反対か。公約違反だからと。子供の喧嘩以下だ。
政治家に信念も識見も無い。選挙のことしか頭に無い。

民主党内では小沢の息がかかったような奴が離党していく。野田政権がダメだということで。しかし、国民の中に小沢待望論は無い。ほとんど。

永田町は機能していない。

だから世論調査をすれば宰相にふさわしい人として、石原慎太郎や橋下 徹の名が挙がる。

政治を見捨ててでも、何かを始めなくてはならない。歳月は勝手に変わるもの。変わる歳月を誰も恨んだりはしない・・・。

今年も御愛顧よろしくお願いします。