郡山の古刹の住職と酒を飲み語り合いました。昨夜。真言宗室生寺派の寺。
その寺にはゼビオの先代社長、創業者の諸橋廷蔵さんや児童詩誌、青い窓の創刊者、佐藤浩さんもねむっています。
彼は生粋の郡山人。まだ40代の若さですが、幅広く活動しています。震災後にひょんなきっかけで知り合いになり、今度ゆっくり話そうという約束が実現。
だれそれはどこのなんとかだとか、だれそれは先輩だ、後輩だとかの郡山特有の世間話からはじまって・・・。
初対面の時、亭主は彼にぶつけてみました。「震災後、あまりにも仏者が発する言葉が無さ過ぎる。仏者は沈黙の中に隠れているようだ」と。彼はうなずいて亭主の駄弁を聞いていてくれました。
そして昨夜。彼は答えを用意してきてくれたのでしょうか。静かに語り始めました。「震災後、相馬から南三陸へ言った。その情景を見た時に発する言葉が無かった。そして思った。自分は生かされている者だと」。
知り合いの僧侶を失い、壊滅した寺も多い。知り合いで。
「あれだけ一瞬にして奪われた命を見た時、それに出会った時、やはり仏教のあり方を考えた。死者を供養することだけが使命ではない。生き残った人たちに対して、生かされた命としてある自分が何をすべきか・・・まだ悩んでいる」と。
彼は若手の仏教者とともになにがしかの支援物資を持って避難所だったビグパレットに行ったそうです。館長が持ってきた物資の数を訪ね、「ここには今2千人以上の避難者がいる。その人たちに公平にいきわたるような数ではないと受け取りにくい」と。館長は県から派遣されてきた職員です。彼は行政の在り方について甚だしく疑問を持ったそうです。公平・公正という考えは何なのかと。
そして、死者への供養の経を唱えるのではなく、生きている人たちと語りあう言葉を捜している、それに苦悩していると言っていました。
瀬戸内寂聴はツィッターで毎日、機械的の言葉を羅列している。玄有宗久氏はメディアに露出して、さまざまな事を語っている。それらに感化されながらも、向かい合って喋る言葉を、生きて行くために手助けになる言葉を語りたいと模索している・・・。
「今度、若手の仏者達の集まりに来てください。話をしてください」。今朝、彼からの電話。もちろん快諾です。
東北人は信心深いのです。死者への勤めと生者への勤め。仏者に課せられた大きな課題です。
きょうは阪神淡路大震災の起きた日。あれから17年。福島県からも多くの人が彼の地に向かい、暗闇の中でろうそくをともし、犠牲者の霊に祈っていました。皆泣いていました・・・。
間もなく午後2時46分。神戸の地から東北へ向けての黙とうと祈りがささげられるそうです。
当事者同士でしか分かち合えない悲しみ。生者は分かち合うことで悲しみや苦しみを半分に出来る。そして、つながりと絆が生まれる。
バーゲンセールのように、安売りされているような「絆」という言葉や文字。本当の絆がある場所もある。仏者としての絆を求めて苦悩している僧もいる。
住職は檀家から「方丈さん」と呼ばれているらしい。
阪神淡路大震災後、亭主は新聞のコラムに書いた。「大震災と方丈記」。
玄有さんも今書いている。無常を生きる。大震災と方丈記というようなサブタイトルで。
次回は方丈さんに方丈記を勧めるの記なんてのがあるかも。
2012年1月17日火曜日
“チェルノブイリ”異聞
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