2012年1月11日水曜日

普通のことを普通にやる

普通。あらためて辞書を引くと「ひろく一般に通ずること」「どこにでも見受けられるようなもの、並み、一般」とあります。

大震災後、原発事故後、「普通の暮らしに戻りたい」という声が多く聞かれました。避難所の中で、仮設の中で、放射能に脅えて暮らす人たちの中で。

普通という言葉は、普通一般に日常使われている言葉ですが、あらためてその言葉を考えてみると凄く難しい言葉に思えてきます。

日常という言葉に置き換えることもできます。たしかに、3・11以前にあった日常を失ったひとばかりだったから。
だから「普通の暮らしに戻りたい」と切望するのでしょう。

じゃ、普通の暮らしとは何でしょう。普通の暮らし。それは大金持ちでもなく、際立って貧乏でもなく、そこそこの仕事に就き、一日三食を食べ、自分の寝床でやすらかに寝り、たまに酒を飲み、歌をうたう。家族で憩う。そういう一般市民的、庶民的生活。

飼い犬や飼い猫に餌をやり、日の出に感謝し、夕日に涙するそんなおだやかな日々。それが普通の生活だったかもしれません。

「ほだげんちょ、ふくしまの米、桃、りんご、梨、柿、野菜、人も生きてる」

ほだげんちょ、そうなんだけどという意味の方言。朝日歌壇にあった福島市の女性の句。普通の生活でなくなった、普通の人が、普通の言葉で、不条理に静かに抗議している・・・。

「普通」という言葉の反対語は「特別」でしょうか。

被災者の人たちは、やはり特別な毎日を送っているのです。非日常のままで。それを決して日常と思わせてはならない。そう思うのです。

そのために、普通に出来ること、決して無理はしないで、しゃかりきにならないで、出来ることを普通にしたいと思っているのです。

「おたがいさま」「ありがとう」。日常交わされる普通の言葉だったはず。

きょうは1月11日。あれから10カ月なんです。何にも変わっていないような・・・。

「主よ、変えられないものを受け入れる心の静かさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を我に与え給へ」アメリカの神学者、ラインホールド・ニーパーの“祈り”です。

何十年も前のノートの端に書き留めていた言葉。そんな事をするのが亭主にとての普通の暮らしだったのですが・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...