2012年7月24日火曜日

かくて幕は降りるのか・・・

福島原発事故をめぐる「事故調査委員会」。民間、東電、国会、政府。その最終報告書が出そろった。

東電を除いて、各委員会の方々の労苦には、それなりに多としたい。

どの調査委員会も「責任の所在・責任追及」の主眼が置かれている。そして、その“所在”も書かれている。しかし・・・・。それまでなのだ。

責任とは何か。あらためて考えてしまう。考えるまでもないことだろうが。少なくとも、誰も罪科(つみとが)に問われているわけでなないのだし。

そして、どの報告書もおしなべて予測の範囲。責任も含めて指摘された当人がどう反応していくのか。

政府事故調の畑村委員長は言う。「見たくないものは見えない。見たいものが見える」。けだし名言である。そして、その名言を残して、これらの調査委員会はお役御免の幕引き。委員それぞれも「未解明の部分が多過ぎる」としているのに。

そう、多くのことが解明されていないのに。

膨大な事故報告書は野田のもとにわたった。野田がそれを何と為すか。新たに出来る「規制庁」へと引き継がれるということだけだろう。

新たな事故調査委員会の必要性を強く思う次第。

少なくとも福島県民は、「見たくないものを、あまりにも多く見てしまった。見たいものはいまだ見えていない」。畑村発言の挙げ足をとるようだが。

双葉病院の避難問題についても、多くの死者を出しながら、誤った報道が院長が逃げたと伝え、一時は極悪人にさえされていた。あの、非難の渦にさらされながら、よくあの院長は立ち直ったと思う。

過酷な避難行。それは県の縦割り行政のなせる業だと報告書は指摘する。行政が縦割りであったとしても、それを束ねる県知事という人物がいたはずだ。それに対しての、県知事の責任に直接言及した記述は無い。

これで幕を降ろされてしまっては・・・。福島県民はたまったもんじゃない。

責任追及だけでは、事は終わらない。真相の解明がなされねばならない。しかし、それは無理だという・・・。

たとえ何年かかろうとも、真相が究明されない限り、原発再稼働とは言えないはずなのに。

メディアの検証報道も盛んである。それにはいろいろな形があるが。委員会が手を引くなら、そのあとはメディアの諸君、君達が引き継ぐべきである。

情緒的な読物にするのではなく、先入観に基づくものでなく、原点に立ち返って、自分たちの報道も含めての事故の検証、調査をやる義務がある。それを新聞社は連載記事でやるのではなく、一冊の本にまとめなさい。テレビは特にNHKは他の民放局の協力を求めて、DVDを作りなさい。見えるようにしてほしい。

この2011年、2012年に存在していたメディアとして。課された義務なのだ。

谷川俊太郎の詩。「死んだ男の残したものは」。その最後の4行。

死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまたくる明日
他には何も残っていない
他には何も残っていない

「輝く」の部分だけを申し訳ないがいじる。「消えゆく」に替える。
事故委報告書なるものが出そろって、それを見て、この詩が浮かぶということ。

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