2012年7月31日火曜日

たった一人の反乱

きのう、大間の「あさこハウス」のことを思い出して書いた。原発に自分の土地を売らないと決めたあさ子さんは、多くの嫌がらせを受け、村八部にもされた。しかし、自分の信念は変えなかった・・・。

「たった一人の反乱」。そんな言葉が思い浮かんだ。数十年前に書かれた丸谷才一の小説のタイトル。その本のことを思い出した。でも、残念なことにその本は書架に無い。散逸されてしまった本の一冊。

「3・11」後、ずいぶん本を買った。いわば手当たり次第にという状態で。もちろん震災関連の本であり、原発関連の本であり、この国を読み解くための本であった。そして、ジャーナリズムの在り様をめぐる本・・・。乱読。まさに、分不相応な出費。

あれ以降、今に至るまで、ボクのこころに生まれた“空洞”、不安定な精神構造。それを埋めるために、しばしば文学に逃避した。しようとした。「3・11」以降に書かれた文学作品にはそれを埋めるものが無かった。渇きを潤わしてくれない・・・。そんな文学に出会えない。

いきおい、「古書」に頼ろうとする。記憶にある本。しかし、それは無い。後悔する。何があっても、邪魔であろうとも、本はとっておくべきものだったのだ。
並べられた書架の本の背表紙を見るだけでも、そこには思考のヒントがある。埃をはたいて数ページ繰るだけでも埋められるものがある。空白の時間も埋まる・・・。はずだったのだが・・・。

「たった一人の反乱」。たしか、高級官僚が民間に天下りを余儀なくされ、その会社や家庭の中での数々の葛藤。ダリの「壊れた時計」をも登場させ、自らの精神世界を保とうとする主人公。それは、作者そのものだったような。

たった一人の反乱。それは、いま問題とされている「いじめ」にも通ずるものがあるような。

反原発集会。それを“反乱”と呼ぶのは、相応しく無いかもしれないが、今、この国で起きている“反乱”。それは、コップの中の嵐ともメディアは揶揄するが、おしなべて“群をなして”いる。
一人ではなく、群れで、今の社会事象が語られる。そして、都会で「たった一人」だと思っていた人も“群”の中に身を置くことで、安堵感を覚えている。
「群衆の中の孤独」。そんな観念は今は持ち合わせていないような。

原発から避難した人たち。自主避難とやらをした人達。たった一人というケースは稀だ。避難者同士で群れをなしている。
どこかに帰属したがる。組織化したがる。同憂の人たちと集うことの安堵感・・・。

たった一人の反乱。至難の業なのだ。川内村に漠原人村を作った風間さんという人は、さしずめ、その一人だったのかもしれないが。周りから見れば“奇人”だった。

反原発集会は、もっともっと膨れ上がっていくかもしれない。それが結果をもたらすかどうかは別にして。

大間の「たった一人の反乱」の方が、与えた影響が大きかったようなきがするのだが。歴史上にも、そんな人がいたような気もするのだが・・・。

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