2014年12月19日金曜日

「終わり」を始めよう

知り合いの中学生に聞いた。
「マララさんて知っているか」と。「知らない、どこの人、何のスポーツの選手」と問い返された。
ノーベル平和賞を受賞した17歳の女の子だよ。“子どもが、学校に行けないことはいけないことだと言っている人だよ”と言ってはみたものの「ふ~ん」というような表情だった。

そう、この国では子供が学校に行くのが当たり前なのだ。それを誰も問題視していない。誰もが“教育”を受けている。格差が有ろうと無かろうと、その権利は保障されている。

パキスタン17歳の少女、マララ・ユサフザイさんは受賞記念演説でこんなことを言っている。

「私たちは教育を渇望していました。なぜなら、私たちの未来はまさに教室の中にあったのですから。ともに座り、学び、読みました。大きな夢を抱きながら教室に座っていました。
テロリストたちは学ばなかったのですか。コーランでアラーが言っている“一人の人間を殺すことは全人類を殺すことと同じである”ということを。
なぜ、強いと言われる国々は、戦争を生み出す力がとてもあるのに、平和をもたらすことにかけては弱いのでしょうか。なぜ、銃を与えることはとても簡単なのに、本を与えることはとても難しいのでしょうか。
なぜ、戦車を作ることはとても簡単なのに、学校を建てることはとても難しいのでしょうか」。

彼女の渾身の訴えもむなしく、パキスタンでは学校が反政府武装勢力に襲撃され、140人もの子供たちが犠牲になった。犯行グループはマララさんを襲ったものと同一組織だという。

そして、ナイジェリアでは多くの女性や子供が誘拐され、何十人もが殺害されているという。

彼女の演説の締めくくりでこう言っている。

「戦争で子供の命が失われることも、子供が学校に通えないことも、これで終わりにしましょう。この“終わり”を始めましょう」。

彼女が訴えたのは闘う目標にしたのは、こどもが普通に教育を受けられる「権利」だ。

福島の子どもたちの教育を受ける「権利」はどうなっているか。双葉郡の小中学校のこと。

学校は“再開”された。しかし、元の校舎での開校は川内村と広野町だけ。他の地域では避難先を含め、工場跡地を使ったプレハブ校舎、廃校を利用したものなのだ。しかも“再開”されてと言っても、そこに戻ってきた生徒は少ない。
避難先の学校に転入した子も多い。
あきらかに学習環境は変わった。それを補完するために教職員や地域の人たちがいろいろな試みをしてはいるが。

まともな教育を受ける環境は、彼らには与えられていない。

そして教育の場で何が教えられているかということだ。詰め込み式の「知識」の押し付けか、カリキュラムに沿った「与えるだけ」の教育か。
塾に行くことを半ば学校が押し付けてはいないか・・・。

アメリカのある中学校では、ダンスの発表会の席で、会を主導している14歳の少女が壇上に上がりこう言ったという。それは予定外の行動だったという。

「パキスタンで犠牲になった子供たちのために黙とうを捧げましょう」と。
14歳の少女が、他国では、生きる権利、学ぶ権利を奪われた子供たちがいることを知っている。

それはアメリカという“野蛮”な国で、しばしば学校襲撃事件や銃乱射事件が身近で起きているからかもしれないが。

日本の中学や高校で「マララさん」が教えられているのか。そのことについての生徒同士での話し合いがされているのか。

教師たちはどう思っているのか。それを知り得る立場にはないが、知りたいと思う。

大人の争いの中で常に犠牲になっているのは「子ども達だ」という事。そんな事例が世界にはあまた存在しているとうこと。

終わりを始めよう。彼女の言葉は重い。

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