時間の許す限り見ているテレビ番組がある。ずっと続けて欲しい番組がある。
あの時以降、時間帯は変わっても放送時間は少なくなっても続いている番組、
NHKの「被災地からの声」。同じ被災者である仙台放送局の津田喜章アナウンサーが担当している番組。
これだけはNHKのたった一つと言ってもいいくらいの“良心”なのだ。
過日は飯舘村を取り上げていた。酪農家二人を。放牧したままの牛の世話に帰ってくる二人。遠く離れた仮設住宅からだ。
放射線量の関係で、帰れるのは年に15回と決められている。しかも昼間だけ。
そこで放牧されている牛、それは「使い物」にならない牛だ。食用にも牛乳にもならない、ならせることの出来ない牛だ。
月に一回、餌をやりにくる。様子を見に来る。牛は嬉しそうに寄ってくる。
なんで「商売」にもならない牛の世話をするのか。
「家族だから、家族同然だから」と答える。
「さ、行くべ、帰るべ」。仮設に向かう二人。「ああ、違った。帰るのはここの家だ。仮設は“戻る”だ」。
たしかこの時津田キャスターは言っていた。
「こういうことが。こういう人がいるとは正直言って知りませんでした」。
そこに映し出されていたのは「なんとかミクス」とは“無縁”の世界だった。
今日は岩手県の大槌町からだった。漁師の街。漁師も三分の一程度に減った。
「いろんな支援をもらった。これからは支援から交流へとなって欲しい」。
町役場の職員が言う。ボランティアで瓦礫処理などを手伝ってもらった人達に、もう一回交流を目的にきてもらいたいと。もう一度来てもらって今の街の様子を見てもらって触れ合いたいと。
「でも、復興なんてまだまだだけどな・・・」と。
「今までは地元の人を相手に商売してきた。人が少なくなった今、客層を内陸部や県外に販路を求めなければ商売はなりたたない。それは地元の人を捨てることにもなるかもしれないが」。たしか、海産物を扱っている店の店主だった。「ほんとは避けたかったんだが・・・」と。
とにかく人口減少は深刻なのだ。高齢者ばかりが目立つ町。
75歳の仮設に暮らす人は言う。
「小さくてもいいから自分の家が欲しい」と。
災害公営住宅の建設も遅れている。それへの期待感は複雑だ。
「どうせ知らない人がいるところに行かねばならないのなら、近くに病院とかあるもっと便利なところがむしろいいのかな」と。
「津波以来、多くの人に支援してもらった。今でも時々支援の人がくる。でもこれ以上、甘えてばかりいるわけにはいかないし」。仮設の玄関で話していた高齢者。「「自分で出来ることを何かしないと、そう思って仮設の周りの草むしりをやっているさ」とも。
この国の中にある「一つの姿」だ。この国の今の断片だ。
この人たちのところにも雪は“平等”に降ったのだろうか・・・。
番組のタイトルバックにながれる映像は、あの時の避難所の姿だ。急ごしらえの寝場所だけ確保した。そしてそこで無心に遊んでいる子供。そしてカメラに、笑顔を見せる赤ん坊の姿だ。
この番組、終わらせて欲しくない。タイトルバクの映像とともに。
「津田クン、まだまだだぞ~」と声をかけてみる
2014年12月18日木曜日
“チェルノブイリ”異聞
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