朝日新聞の長期連載、「プロメテウスの罠」。今書かれているのは富岡町の“おたがいさまセンター”をベースにした「おたがいさま」。
避難民であふれたビッグパレットの事が書かれている。記事を読んでいると、あの時の光景や自分の心象、そこから考えたことが、つい先日のことのように蘇ってくる。
ビッグパレット。そこは僕の「3・11」の一つの原点なのだ。
川内村と富岡町。すし詰めになった避難者。段ボールで仕切られた“住居”。
きょうの見出しは「みんな笑いたかった」。
ビッグパレットに“開局”されたFM放送局。パーソナリティの軽妙な語り口に、その場の聴取者が反応する。そのやりとりにそこに居た人が笑い、笑いの渦が広がっていったという。
開局を思い立った一人がこう述懐していた。
「ああ、みんな笑いたかったのだ。まわりに気をつかいながら声を潜めて我慢していたけれど、笑ってもいい、そのきっかけが欲しかったんだ」と。
FM局が立ち上がったのは震災から2か月も経ってから。日参していた、3月、4月のビッグパレットには「笑顔」は無かった。
虚脱感に包まれた人、いつも怒っているような人、黙々と一日をやり過ごしている人・・・。
事務室は二つの町と村の役場になっていた。ビッグパレットの職員のいる場もなかった。やがて”広場“に仮設の役場が出来はしたが・・・。
そう、当時のあそこには「笑顔」は無かったのだ。笑い声も無かったのだ。
友人のフルート奏者と一緒に慰問の演奏に行った。かろうじて立っていられる場所に立って。
演奏者はリクエストを求めた。そのリストを配って歩き、曲名をたずねるのが僕の仕事。
富岡からの人のリクエスト。サザンの「つなみ」だった。奏者と顔を見合わせ、どうしようか迷った。
「彼女(リクエストした中年の女性)には、それなりの想いがあるのだろう。好きな曲なんだろう。他の人は不快になるかもしれないがやろう」。
演奏が終わるとその人は泣いていた。その涙の訳はもちろん聞かない。そして、ちょっと微笑んだ。ありがとうございましたと言って断ボールの中に帰っていった・・・。
ビッグパレットにあった「ツナミの涙」だ。
5月。テレビではもう通常のお笑い番組が復活していた。スタジオには“乾いた笑”が充満しているような。
そのテレビを観ているひともたぶん笑っていたのだろう。
作られた笑い。
ミニFM局が媒介した「笑い」。笑ってもいいと思ったということ。
なぜ笑いたいのか。笑えば肩の力が抜ける。肩の力が抜ければ頭も動く、体も動く。笑いって人間にとってすごく大事なことなんだよな・・・。
戦後、一家で笑ったのは、ラジオから流れてくる落語の下げだった。笑いは希望へのステップだったのかも。
そしていつの間にか、避難所としてのビッグパレットはそこに居る人たちにとって、逆説的なもの言いのようだが「楽園」になって行ったのだ。
同じ境遇の傷ついた人たちが一緒にいる。どこかで助けあっている。笑いを“提供”した爺ちゃんもいる・・・。
ある時、避難している人を近所の温泉に誘った。行かないという。やはり「自衛隊さんのお風呂がいい」という。
仲間と一緒に入れるからだろうか。それとも自分だけが良い思いをしたくないということなのだろうか。
湯上りのその人の顔からは笑顔が見えていた。「ああ、さっぱりした」という言葉に元気さがあった。
あの当時のビッグパレットの話しだ。今は、元のイベントスペースに完全に戻っているあの場所。
2014年12月17日水曜日
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