2014年12月31日水曜日

「・・・そして鐘は鳴る」

あと数時間で除夜の鐘が鳴らされる。日本中の寺のあちこちで。その鐘は108つの煩悩を断ち切るということだそうだが。

「静謐とした鐘の音に心耳を澄ます」ということだろうか。

流行りである「今年の漢字」。それは「税」だった。違う。「怒」だ。
二文字が許されるなら「憤怒」だ。
去年から一昨年から今年も、憤怒の川は渡れていない。

「税」と言う字を“抵抗感”も無く大書した清水寺の管主に違和感を覚える。

もっとも、この年末の土壇場に来て、税制改正大綱が決められ、それはどう見ても「金持ち優遇税制」に思えてならないということ。歳の瀬までの“話題”ではあったことではあるが・・・。

人間の中にある怒という感情。それを“哲学的”にとらえようとどうしようと無くしてはならない感情であり本質だ。

それを忘れてしまっているかのような多くの日本人がいるということ。
「怒り」を忘れたら、そこには何が残るのかということ。
多くの福島県民は、多くの被災者は、静かなる怒りの胸の中に秘めているはずだ。
決して「怒り」を忘れた民では無いはず。

年末年始、日本人にとってはやはり「特別な日」なのだ。
歳末助け合い運動なんていうのがあった。

歳を越すのに生活に困っている人たちを思う運動だ。
帰省ラッシュがあり、多くの家では、それぞれが正月を愛でるための、祝うための、それぞれの「ご馳走」で歓待し、祝い合う準備に追われている家庭もあろう。

東京の渋谷では、いわゆる路上生活者が、“拠点”にしている公園を追い出され、それこそ路頭に迷うという光景。今に始まったことでは無いが。
“公園”の中、そこは彼らにとっての「帰る場所」なのだが。そこを追われるということ。
炊き出しが路上で行われているという。

柳美里の「JR上野駅公園口」という本が頭に去来する。

富める者は富める者なりの年末。貧しきものは、貧しき者なりの年末・・・。


あの日以降、4回目の大晦日だ。

鳴らされる鐘の音は鎮魂の音である。そう聴く。
そして弔鐘とも聴く。

「誰(た)がために鐘は鳴るやと。そは、我がために鳴るなり」。

あの日失われた多くの命、その後無くなった震災関連死の人、そして、今なお海の中に眠っているであろう人たちへの。
多発した自然災害の被害者への。

家の近くに寺がある。宝光寺という。窓を開ければそこでつかれる鐘の音が耳朶に届く。しばし、寒気に耐えてその音に耳を傾けるつもりだ。

過ぎ行く一年を振り返るという。振りかえって特筆すべきものは何もない。

卑近な話し、県内の住宅の、双葉郡を除いた35市町村の除染進捗率は60%にも満たない。道路、山林に至ってはその数字は極めて低い。

振り返るとすれば、この4年間の全てだ。

雨が雪に変わりそうな気配。雨はすべてを流してはくれない。雪はすべてを溶かしてはくれない。

仮設住宅に門松が立てられ、しめ縄も飾られているという。

誰にでも、万遍なく、公平な大晦日であり、新年であって欲しいと思うのだが・・・。

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