2014年12月23日火曜日

今日は天皇誕生日なのだ

日用品が欠落したので、雪の中、近所のスーパーに行く。
駐車場は雪かきがされ、買い物客は当然のようにそこに車を停める。

自分の家の周りの雪かきはままならない。スーパーでは、それが仕事とはいえ、
従業員は早出して客のために備えている。

雪の後始末は誰かがしてくれている・・・。

きょうは天皇誕生日だ。昔は「旗日」と言い、門の前に日の丸を掲揚する家が多かった。戦後の光景だ。日にちは違うが。

今、日の丸を掲揚する家はほとんど無くなった。

皇居では一般参賀があり、日の丸の小旗が振られる。天皇に祝意を表するために。

日常、最近のことだが、日の丸の小旗はたとえば東京の新大久保界隈とか、大阪とかで振られている。いわゆる「ヘイトスピーチ」をがなり立てる、“在特会”の人たちの示威の道具として。排外主義の象徴として。嘆かわしい限りだ。


平成天皇ご夫妻。両陛下に敬意を抱く者である。天皇陛下は81歳になられた。
昭和の時代、戦後を振り返って田中角栄はこう言っていた。
「天皇陛下がいて助かった」と。昭和天皇の存在が、戦後、動乱を招くこともなく、復興にこの国が進んでいけたことを指してだ。

「3・11」後、平成天皇が両陛下がおられたおかげで、被災地は“救われた”おもいになっていた。避難所を回られるあの両陛下の真摯な姿。おおよそ万人の共感を呼んだことだろう。

明治天皇も、昭和天皇も、平成天皇も「平和主義者」だったと思っている。
昭和天皇の開戦時の詔勅も「平和を希求する」思いが大きくにじんでいる。

終戦間際、昭和天皇は東条英機を呼んで、戦争終結に向けての“意向”を語られた。その時引き合いに出されたのが、明治天皇の御製。

「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」

東条は天皇の真意を知ったという。

昭和天皇が出席されていた戦没者追悼式。それへの出席が体調でかなわなかった時か。詠まれた一首がある。

「やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど」

シンボルフスカの詩の冒頭。戦争が終わったら誰かが後始末をしなければならない。

平成天皇は、まさに、言葉は悪いかもしれないが、その後始末をされているように思える。

国内の沖縄から広島、長崎などの慰霊の旅。
国外でもサイパン、パラオ。

サイパンの“万歳クリフ”で深々と頭を垂れられた両陛下のお姿。涙した。

まさに「慰霊」の旅。

そして両陛下が持っておられる憲法観、戦争観、靖国観。
昨日の会見でも天皇陛下は言われていた。
「先の戦争では300万を超す多くの人が亡くなりました。
その人々の死を無にすることがないよう、常によりよい日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課された義務であり、のちに来る時代への責任であると思います」。

明らかに戦争をしてはいけないと言われているのだ。

天皇の意向を無視するかのような安倍政治と断ずる。それは右翼の幹部でさえ言っていることなのだ。

先の大戦時もそうだったように、天皇と時の権力との間には、やはり溝がある。そして、近くは明治維新がそうであったように、権力は常に天皇を「政治利用」しようと図る。

政府も軍もマスコミも、そして大方の国民が「戦争」を支持していた時代。昭和天皇の胸中やいかばかりであったろうか。

平成天皇が、許された範囲の中で、率直な思いを語りつがれることを願っている。
両陛下の行動、お言葉に触れた時、心の中に安堵をもたらしてくれるのだ。

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