2015年1月13日火曜日

表現としての「フクシマ」。

3・11後、原発事故後。福島をフクシマと仮名表記することを、されることを極端に忌避した人達がいた。

カタカナ表記するということに、侮蔑とか差別の感覚があるものとしてだろうか。

福島、福島県、ふくしま、フクシマ。その時の“用途”によってそれらを使い分けてきた。

原発、原発事故。それを語るには、行政単位としてある福島県ということでは、何も本質は見えてこないと思ったから。

災後、最初に接した本は鐸木よしみつという作家の書いた「裸のフクシマ」という本だった。川内村に在住していた。
たしか県人でもあろう開沼博も「フクシマ論」と題して書いていた。

数日前の新聞への投稿があった、歌壇に載った句。

「フクシマはいつも三月 夏も冬も 今日も明日もいつもあの時」

いわき市の方の句だ。

「封筒も線量計も我が名前 みんなカタカナ これがフクシマ」

福島市の方だったと。


日本語という文化は、文字は、多彩であり、それを使い分けることで、さまざまな伝えられ方があると思う。

あえてカタカナ表記をすることによって、作者の意図が伝わる場合もある。

1Fを福島原発と呼ぶな、書くなという言辞も数多く見られた。あの頃は。

東京電力発電所と言うべきだ。福島という呼称を外せと。

そう、「風評被害」が満ち溢れていた頃だった。

事故の何を語るかによって、許された表記は、表現の手段としてあるべきだし、前記の句のように、カタカナの方が、訴える力は強い。

「みんなカタカナ、それがフクシマ」。そうだと思う。満腔の抗議の意思を示す上でも。

世の中、カタカナが溢れている。カタカナだらけだ。
それらは主として外国語を日本字化したものであり、時には略語として、時にはネット特有の言語として。

コミケだ、ステマだ、コスプレだ。

ほんの一例に過ぎない。カタカナ文化に支配された国。

漢字というか国字というか。その字の由来、成り立ちを含めて、それらが持っている言葉の、字の豊饒さ。それが無くされていうことの方が問題だ。

音があり訓があり、偏がありつくりがある。豊かな言語なのだ。

楽という字がある。らくとも読むし楽しむとも読む。それをどう読むか、読ませるかによって伝える意味合いは大きく違う。
音楽と書いた時の「楽」は何を意味するのか・・・。

それにしても、福島・ふくしま・フクシマ・・・。
昨日はどう今日につながり、きょうはどう明日につながっていくのか。いるのか。

五里霧中とかいてフクシマとルビをふってみるか。そんな嘆きの冗談すら言いたくなるような。
何があっても決して「風刺」の対象にだけはされたくないと。

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