2015年1月12日月曜日

「成人の日」に思うこといくつか

今日は成人の日だという。だという・・と書いたのは昔人のようだが、成人の日というのは1月15日だと決まっていかたら。成人、二十歳になるということが一つの節目であるように、15と言う日は節目としてあったのだけど。

成人式はきのうから各地で催されている。式典が。晴れ着の若者が集う。
この人口減、少子化の流れの中で、今のような催しがいつまで続くのかなとも思ってしまう。

メディアは、特にテレビは相変わらず「奇異」な成人式の模様を追う。それに狙いを定めているかのように。“大人”の眉をひそませるような様子を追う。

最近の若い者は・・と思わせたいような。

全国ネットで伝えるテレビのワイドショーやニュース。
被災3県の成人式の様子をきちんと伝えてはいかがかと。

あの時16歳だった若者たち。もうすでに、“大人”は彼らにずいぶん教えられて来たはずだ。成人であるはずの大人が大人らしいことをしなかった。出来なかった。
若者の教えられたことは数々あったはずだ。
知っている光景。郡山の野球場の避難所。そこで一番働いていたのは高校生だった。

僕には成人式の記憶が無い。たぶん、あのころはそれがあったのかどうか。
少なくとも20の僕は、折に触れて安保反対のデモに行っていた。
どこかのセクトに加わってなどいなかった。全くの「個人」としての社会への意思表示だった。
警棒で殴られ、水を浴びせられ・・・。
普通の学生をやりながらも、そこは自分のいる場所であったような気がしていた時代・・・。

デモと言えば、フランスでは「テロに屈しない決意を示す大規模な行動があった」。新聞記事にはそうある。イスラム過激主義を背景に表現の自由を踏みにじり、17人の命を奪った現実に抗議の意思を表明したとも書かれている。
200万人が行進とも。そして、フランスのオランド大統領は「団結こそ力だ。国民よ立ち上がれ」と訴えたという。

「団結は力だ。学生よ立ち上がれ」。二十歳の頃、そんな言葉もあったな・・・。


テロは勿論許せない。まして人の命を銃で奪うなんてことは許されない。それとは別次元で物を見る。テロも怖い、しかし、この200万人の行進、ヨーロッパ各国首脳が参加した行進。それをデモとは言わないまでも、それもなんだか怖い。マスコミは“絶賛”しているように見えるが。

何が怖いか。原理主義者、過激主義者への「抗議」が、いつしか反イスラムとなり、フランスに数多く住んでいる、フランス国民でもあるイスラム教徒への排撃につながるのではないかという一つの危惧。

各国首脳たちも口を揃えたように「言論の自由」を言う。ならばあなた達は言論の自由を守ってきたのか。

安倍も言っていた。言論の自由への挑戦は許せないと。ならば、あの選挙時、メディアに圧力をかけた仕業こそ言論の自由への介入ではなかったのかと問いたい。
特定秘密保護法を強行採決までしておきながらだ。それが言論封殺につながりかねないという危惧がある中でだ。

それぞれが、それぞれに言う「言論の自由」という“御旗”。

「佐賀の乱」と称されることがあった。自公推薦の候補が敗れ、農協が推した候補が当選した。
「佐賀のことは佐賀に」。当選の弁だ。
福島を除いて(それはまったくの相乗りだった)知事選は総選挙を挟んでことごとく自公の敗北に終わっている。

なぜか。中央の地方への強度な介入を否とする“民意”がそこにあったからではないか。候補者の瑕疵が問われた結果ではない。介入への嫌悪感なのかもしれない。

どこかで「幕末」の空気も感じる。

なぜ安倍はあれほどまでに「農協」を嫌うのか・・・。規制緩和という政治目標の為か。TPPへと繋げたいからか。

フランスの民衆のうねりに見えてくるもの、成人式の画一的な報道。だれもが皆「目先」だけを追って、奇をてらっているような気もして・・・。

二十歳になった若者としての成人。成人にとっくになっている“大人”たちの振る舞い・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...