2015年1月15日木曜日

「失われた時を求めて」・・・本の話し。

皇居で歌会始めの儀があった。今年のお題は「本」。

皇后陛下の歌に魅了された。

「来(こ)し方(かた)に本とふ文(ふみ)の林ありてその下陰に幾度(いくど)いこひし」。

皇后陛下はこれまでどれくらいの本に接しって来られたのだろうか。
本に対する敬意と感謝の念をよまれたものだという。

折しも、昨日、東洋大学の「現代学生百人一首」の入選作が発表された。応募作品6万首余り、入選作は100首余り。

応募作の中にこんな一首があった。

「心地よい紙の香りに包まれて活字の世界を私は旅する」。東京の女子高生の句だ。

どこか皇后陛下の歌と表裏をなすもののような。
この子の旅路が美智子皇后のような“帰結”になることを願う。

3・11を詠んだ句もある。

「あの日から土だけになった街跡を見ていて思う“震災終わらぬ”」
岩手県の高校1年生の句。

“ネット”に覆われて今を詠んだ句もある。

「手のひらの中の小さな画面よりこっち見てよと言えぬ私は」

「液晶に絶えず目をやる人々の心の富はいかほどばかり」

今時の高校生は・・・なんて言わない方がいいと思う。彼らの感性は世相を把握し、喝破している。

その世相。社会の“空気”にも見事に反発する。

「苦しいなどこまで上がるか消費税不安が増える一人の暮らし」
 福島県立平工業高等学校 3年生の句だ。

「右向け右いつか習ったこの言葉それが僕等の特性なのか」

「正義って何だろうね」とつぶやいて歴史の教科書めくってる君


若者は決して不作法では無い。

「席ゆずり静かに聞こえた“ありがとう”疲れた体少し和んだ」


歌会始めの話しに戻る。

なぜ美智子皇后の歌に惹かれたかだ。本と自分との来し方を思ったからだ。

始めて本というものを知って、買ってもらって、買うように、買えるようになって、何冊の本と接して来ただろうか。
最初に買ってもらった本は覚えている。「家なき子」だった。

何時しか書棚が出来、そこに読み終えた本が並ぶ。本に囲まれるようにして眠る。傍に本があると言うのが一番落ち着く場所となった。

引っ越しのたびに本を整理する羽目になった。東京の家をたたみ、郡山に居を構えた時、多くの本を処分した。処分せざるを得なかった。スペースの問題、あとは心のどこかにある複雑な心情。

郡山のマンションでも何時の間にか一部屋は本で溢れていた。それらの大半も処分した。

その処分してしまった本の中に後悔の念に堪えない本がある。マルセルプルーストの「失われた時を求めて全巻」。多分10数巻あっただろうか。
今、あらためて束の間でもいい、その黄ばんだページに接したい本だ。

気は付けば大事な本も無くなっている。五味川純平もいない。吉本隆明もいない・・・。
源氏物語全巻もいない。

そして今、書棚の前面には「3・11後」の本が並んでいる。読んだものも、そうでないものも。
まさに本を買うことによって、家計のプライマリーバランスは崩壊している。

それらの本の背表紙を見るだけで、失われるかもしれない時を止めることにもなる。背表紙が「忘れる」ことを忘れさせる。
事務所に置いた本も、もう置き場が無くなっているような。

でも、また「紙の香り」に包まれたいとおもうだろう。買うだろう。

本って何なんだろう・・・。

歌会始めの選者、永田和弘宏が詠んだ句。

「本棚の一段分におさまりし一生(ひとよ)の量(かさ)をかなしみにけり」。

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