東京電力福島第一原子力発電所。その廃炉工事にあたっている作業員がタンクから落下し亡くなった。
第二原発でも“労災事故”が起きた。作業員は意識不明の重体だと言う。きょうの話しだ。
作業員の死亡事故は2件目。けが人は去年だけでも40人、前年に比べて3倍も増えている。
こんなにも“犠牲”も伴っているのだ。
今日亡くなった方は広野町のゼネコンに所属している55歳。
もちろん「労災事故」だ。労災事故は言ってみればどこにでもある。あってはならないことだが。
「原発構内」でも事故を同一には語れない。そこは過酷な現場だということだけでも。
亡くなった方はロープを付けていなかったと東電は発表している。その人が高所作業に熟練したひとなのかどうか、単独で作業していたわけではなさそうだ。
一緒にいた人たちは・・・。東電の管理担当者は・・・。
地元紙にはこう書かれている。
『東電は労働災害の増加について、1~4号機建屋周辺の地盤を凍らせ地下水の流入を遮断する凍土遮水壁の設置工事や原子炉建屋内のがれき撤去が進んだことから「汚染水対策などの本格化に伴う、作業員数の増加によるもの」と分析する。東電は、作業現場の安全確認が十分にできていない点も課題に挙げる。3月には大型休憩所が完成する予定で、全面マスクを外すことが作業員、社員間のコミュニケーションや作業管理の改善にもつながるとみている』。
作業員の人数を確保しないと作業は進まない。”寄せ集め“のような人もいると聞く。練達の士は少なくなっているとも聞く。
過酷な労働条件、労働環境。うっかりミスだって相次いでいる。ミスにつながるは必定なのだ。
天候不順な時には海風だって強い。体を支えるだけで精いっぱいの時もあるだろう。
重い、重い、重い・・・。
事故と脈絡は無いが、一人の高校生の詩がまた思い起こされてきた。以前にも引用させてもらったと思うが・・・。石巻西高校の生徒の想いだ。
潮の匂いは世界の終わりを連れてきた。
僕の故郷はあの日波にさらわれて、今はもうかつての面影をなくしてしまった。
引き波とともに僕の中の思い出も、沖のはるか彼方まで持っていかれてしまったようで、もう朧気にすら故郷の様相を思い出すことはできない。
潮の匂いは友の死を連れてきた。冬の海に身を削がれながら、君は最後に何を思ったのだろう。
笑顔の遺影の口元からのぞく八重歯に、夏の日の青い空の下でくだらない話をして笑いあったことを思い出して、どうしようもなく泣きたくなる。
もう一度だけ、君に会いたい。くだらない話をして、もう一度だけ笑いあって、サヨナラを、言いたい。
潮の匂いは少し大人の僕を連れてきた。諦めること、我慢すること、全部まとめて飲み込んで、笑う。ひきつった笑顔と、疲れて丸まった背中。
諦めた。我慢した。“頑張れ”に応えようとして、丸まった背中にそんな気力がないことに気付く。どうしたらいいのかが、わからなかった。
潮の匂いは一人の世界を連れてきた。無責任な言葉、見えない恐怖。否定される僕たちの世界、生きることを否定されているのと、同じかもしれない。
誰も助けてはくれないんだと思った。自分のことしか見えない誰かは響きだけあたたかい言葉で僕たちの心を深く抉る。
“絆”と言いながら、見えない恐怖を僕たちだけで処理するように、遠まわしに言う。“未来”は僕たちには程遠く、“頑張れ”は何よりも重い。お前は誰とも繋がってなどいない
、一人で勝手に生きろと、何処かの誰かが遠まわしに言っている。一人で生きる世界は、あの日の海よりもきっと、ずっと冷たい。
潮の匂いは始まりだった。
潮の匂いは終わりになった。
潮の匂いは生だった。
潮の匂いは死になった。
潮の匂いは幼いあの日だった。
潮の匂いは少し大人の今になった。
潮の匂いは優しい世界だった。
潮の匂いは孤独な世界になった。
潮の匂いは――――――――。
地上10メートルのタンクの上で、亡くなった作業員は潮の匂いを感じていたのだろうか・・・。
2015年1月20日火曜日
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