2015年1月26日月曜日

「なぜ“ジャーナリスト”は戦場に行くのか」

ジャーナリストという言葉が一人歩きしている。それに定義は無い。例えば、最近話題の人であって池上彰もジャーナリストと呼ばれた。
本人がそう言っているかどうかはしらない。
「イスラム国」というテロ集団に拘束されている後藤健二もジャーナリストと呼称されている。

大方のイメージとしては、どこかのマスメディアに所属している人ではなく、単独で自由に取材活動をしている人のことを指すのだろう。
マスメディアの会社に所属して、給料を貰っている人を指すのではなくて。

なぜ多くのジャーナリストと呼ばれる人たちが戦場に行くのか。戦争を取材に行くのか。
それも、今は、書くだけの取材ではなく、映像を捉えに。

振り返れば、ロバート・キャパというカメラマンが戦場の記録を撮っていたように。

それは、本人にそれを、戦場の実態を伝えたいと言う“欲望”があるからだ。
この”欲望”とは全く持って悪い意味では無い。

その戦場というところの画像、映像を、それで実態のいくつかを知りたいという見る側の“欲望”が重なる。

その見る側の“欲望”とは、「消費する欲望」だ。いつの頃からか言われるようになった「知る権利」なる欲望だ。

人は時として、破壊や破滅、悲惨な映像を求める。ある種人間が持つ本能的なものかもしれない。

そして「消費される」ということは、決して悪意ではないものの、それを見て、見ることによって、どこかに一種の「満足感」を覚え、やがて「忘れる」ということだ。

「消費される映像」。3・11で十分に経験した。映像が3・11の惨さを伝え、それが人々の心に刺さり、行動も起こさせるし、心の変革をもよびさまさせた。

しかし・・・。それは多くの人達にとって、「消費する側」には、やがて忘れられる。

会社に所属する取材者は、会社の指示もあるだろう。戦場の真っただ中には行かない。
原発事故当時、70キロとか50キロ以内には入ってはいけないと厳命したように。

「消費者」を満足させたいメディアは、いいおい、後藤さんのような「戦場カメラマン」のその仕事を託す。
前払いのような支度金を渡し、戻ってくればその映像を買う。その映像を流す。伝える。メディアの使命として。

戦場の映像。そこに映像をめぐる消費者と生産者の関係が成り立っているということ。

後藤さんはシリアに入る前のビデオメッセージで「すべて、どういう結果になっても自分の責任です」と言っていた。
それを仕事とし、生業とする者の、一つの覚悟の表れとして。

だから彼らに「自己責任」という言葉を浴びせ、すべてを転嫁するのは違うと思う。

その反対側には、知りたい、見たいとする我々の“欲望”があったのだから。
まやかしの平和の中に身を置いて、その地のことを知りたいと言う意志が働いていたのだから。

後藤健二とう人の中には、「子どもを救いたい」という意志が強く働いていたと聞く。自分の取材した映像が、何らかの形で子供を救う手立てになればという意志。

身の危険を知りながらそこへ行く人。危険があるから行かない人。

この事件の報道の裏には、そんなメディア側の「いささかの負い目」もあるのかもしれないとも思える。実態をメディアの側は承知している・・・。

メディアが手段として進化した中での一つの縮図だとも思えるのだが。

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