2015年1月29日木曜日

あらためて「宗教を現代に問う」。

3・11後、二回ほどこのタイトルで書いた記憶がある。

「宗教を現代に問う」。昭和50年代、毎日新聞が連載した企画だ。
その後本になった。全5巻だったと思う。

連載が始まった時代、ジャーナリズムとして「宗教」を考えなければならなかった。宗教からその時代を読み解こうとしたものだった。

3・11後、宗教に「救い」を求めた。あの破壊と混乱、原発事故と言う文明の結末。

宗教者が何を語り、行動するのか。我々が「こころの問題」として、あの事をどう捉えればいいのか。そんな思いからだった。

錫杖を持って瓦礫の中をひたすら歩く僧の姿が伝えられていた。瓦礫の中で、海にむかって深々と礼をするその僧。

その写真から何かを読み取ろうともがいていた自分・・・。


科学は無力であった。学者の言辞も無力であった。「こころの問題」が数多く残こされた。

この国が、“破壊”されようとしている、いや、破壊寸前になった。

一つの心の拠り所として、宗教を問うということは必要なのではないか。

宗教とは何か。哲学なのか。任せるということなのか。あらゆる角度から宗教を取材し、彼らが何を思っているのか、それを書くことは、現代のジャーナリズムの“最後の砦”なのかもしれない。

そんな思いがあったのだ。

今、また宗教が問われていると思う。「イスラム国」の問題が表出してから。
彼らはイスラム教の信者だと思う。しかし、その行動はイスラムの教義に反してはいないのか。

シャルリ・エブドの事件の時もそうだ。

根底にある宗教対立。イスラムとキリスト教。怨念に近いような対立。イスラムもフランスも、アメリカも、基本的には一神教の国だ。

湯川さんと後藤さんの写真が公開された時、あの集団は安倍の演説に食いつき、日本は十字軍に属したと言っていた。

十字軍、言わずと知れた、もう10世紀も前に、キリスト教徒が十字軍というのを結成し、イスラエルの民が暮らす、聖地パレスチナ、特にエルサレム“奪還”を目指す戦争だった。

「広義には、一般的に中世のカトリック教会が異端の徒や異教徒に対して行った遠征を指す」。広辞苑に記載されている。

オスマン帝国の歴史もそうかもしれない。イスラムにとっては。

日本は汎神教の国だ。キリスト教からイスラム教から仏教から、それを宗教というかどうかは別にして神道も。

歴史の過程では、十字軍にしてもオスマン帝国の問題にしても、カトリックとプロテスタントの“宗教改革”にしても、宗教をめぐる“戦争”が“殺し合い”が数多くあった。

宗教対立は血を伴ってきた。

フランスでは異教徒、特にイスラム教徒に対しての差別が激しいとも聞く。
アメリカに於いてもだ。

シャルリ・エブドにしても、「イスラム国」の問題にしても、そこには宗教の万台が内在している。内在というよりは根底か。

今、あらためて「宗教」の在り方が問われている。

東京では、数日前、キリスト教、仏教、イスラム教の聖職者たちが官邸前に集まり、後藤さんの解放を求めて祈りをささげたと言うが。

宗教の根源には「寛容」という考えがあるはずだ。その寛容さは、互いに「排除」の論理に支配され、存在しないような言葉にすらなった。

「無事を祈る」と誰しもがいう。祈るということ。それも極めて宗教的行為だと思うのだが。

あらゆる宗教に於いて、根底にある哲学、思想は「同一」のようにも思えるのだが。

たとえば仏教においても宗派間の“対立”があるということは承知した上で。

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