福島出身の詩人、長田弘さんが亡くなった。
朝日新聞に「折々のことば」という小欄がある。そこに昨日、長田弘のことばが書かれていた。
「見えてはいるが、誰もみていないものを見えるようにするのが、詩だ」。
読むことは旅をすることという詩集から引いたものだ。
見えているのに、見ようとしないものがある。歴史の時点でもそうだ。だから見ることにはそれなりの努力がいる。私にとっては哲学の定義でもある。
選者の鷲田清一が書いていた。
見える物を見ない、見ようとしない。見るべきものを見ようしない。見たものを見えなかったかの如くふるまう。
「3・11」後におしなべてあった空気だ。
そんな空気への“抗議”を詩人は語っていたのだ。今を予見するかのように。
そんな思いを持ってその欄を読んで考えていた。その日の午後、彼の訃報が流された・・・。
言葉には出来ない“衝撃”のようなものが去来した。
3・11後、あの年の5月3日に彼が書いた詩がある。
<人はじぶんの名を>
「2011年3月11日、突然、太平洋岸、東北日本を襲った思いもよらない大地震が引き起こした大津波は、海辺の人びとの日々のありようをいっぺんにばらならにした。
そうして、一度にすべてが失われた時間の中に、にわかに驚くべき数の死者たちを置き去りし、信じがたい数の行方不明の人たちを、思い出も何もなくなった幻の風景のなかにうっちゃったきりにした。
昨日は1万1111人。今日は1万1019人。まだ見つからない人の数だ。
それでも毎日、瓦礫の下から見出された行方不明の人たちが、一日に100人人近く、じぶんの名前を取り戻して、やっと一人の人としての死を死んでゆく。
ようやく見出された、ずっと不明だった人たちは、悔しさのあまりに、誰もが両の手を堅い拳にして、ぎゅっと握りしめていた。
人はみずからその名を生きる存在なのである。じぶんの名前を取り戻すことが出来ないかぎり、人は死ぬことができないのだと、大津波が奪い去った海辺の町々の、行方不明の人たちの数を刻む毎朝の新聞の数字は、ただ黙って語り続けるだろう。昨日は1万1019人、今日は1万808人。」
(2011年5月3日朝に記す)。
長田弘が癌で亡くなったのはまさに5月3日だったと報じられている。
死亡記事が載っていたきょうの新聞。奇しくも俳壇・歌壇の中に囲みで「福島発の歌は問う」というのがあった。
「ふるさとの地形に線量記されていて天気予報のごとく見てをり」
「同じ地にゐながら高き萱草は母とわれとのあひを繁りぬ」
“あひ”とは間ということだろう。母と娘との原発事故をめぐる葛藤、同じ県民同士の軋轢・・・。
「福島は“入る”べき域となりゆきぬ辛夷の花のぼうぼうと白」
行くでも帰るでもない“入る”べき区域・・・。
「目に見えぬものに諍(いさか)い目に見ゆるものに戦(おのの)くまず雪を掻け」
雪とはまだ溶けぬ問題の象徴なんだろうか・・・。
長田弘の詩にしても、これらの短歌にしても、問いけるものは大きい。
だから自分に問いかけてみる。「お前はいったい何者だ。何をしているのか」と。
苦渋の問いかけに“救い”を求めているだけのものでしかない「あべこべのまち」の住人・・・。
2015年5月11日月曜日
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