2015年5月30日土曜日

「国家の品格」、「院の品格」そして「宰相の品格」。

20年ほど前か。ベストセラーになった本に「国家の品格」と言うのがあった。
著者は藤原正彦。新田次郎と藤原ていを親に持つ本業は数学者だった人。

その国家の品格という本の巻頭にはこんな一文があった。
「日本は世界で唯一の“情緒と形の文明”である。国際化という名のアメリカ化に踊らされた日本人は、この誇るべき国柄を長く忘れて来た。
“論理”と“合理性”頼みの“改革”では、社会の荒廃を食い止めることは出来ない。いま日本に必要なのは国家の品格を取り戻すことである」。

まもなく6月。田んぼの稲は育っている。田園風景が望める。その光景を見ながらもこの本の題名を思い出したのだ。

数学者が説く国家、その品格。その指標としてたとえば独立不羈を挙げ、「自らに意志に従って行動できる国、守ってくれる国があるなからその言いなりになっていればいいというものではない。注意すべきは、確固たる防衛力は、隣国への侵略力にも通じかねない」と指摘していた。
そして、「美しい田園が保たれていると言うことは、金銭至上主義に侵されていない美しい情緒がその国に存在する証拠です」とも書き、美しい田園風景があるということは、農民が泣いていないということだが、ここ10年ほどで田園風景や農民の暮らしはすっかり荒らされてしまったとも書いていた。

いささか「つまみ食い」の感ありの引用だが。

彼の言葉を借りるなら、「国家の品格」はとっくに失われてしまったのだ。その本が話題になったのは、日本人がうすうすそのことに気付き始めていたからかもしれないのだ。

「国家の品格」の欠如、それはあらゆるところで今も露呈されている。

「国会」というところの品格、議員が保たねばならない院の品格もより灰燼の帰した感ありだ。あの居眠り議員の姿がそれを象徴している。

そして何よりも「宰相の品格」。安倍は品格無しの政治家の典型だ。自らを最高権力者と豪語してはばからず、自らに意のままにこの国を動かそうとする。
彼の頭の中には議会制民主主義という言葉だけはあっても、その理念が備わっていない。
その典型が首相席からの野次のこと。
委員会の秩序は委員長が司る。彼はそれをも自らが“支配”しようとする。

連日のように露呈する我儘さ丸出しの安倍の野次。

国会法や衆院規則を精査すれば、かれの野次は「懲罰」に値するものだ。野党は懲罰動議を提出してもおかしくない。
週明けには「謝罪、釈明」をして一件落着とするようだが、それとても院の品位にもとることなのだ。

野次だけにはとどまらない。自己撞着に陥った答弁の数々。意味不明の言葉の羅列。委員長が指名したかどうかはわからないが、閣僚に対する質問を、答弁を遮るようにしゃしゃり出てくる自己過信・・・。

彼の言動の多くは二枚舌であり、論理的構成も支離滅裂であり、勝手に思い込んだ自己主張を「丁寧な説明」と換骨奪胎をはかる。

これほど「品格の欠如」した宰相を見たことはない。

一言余談、横道。安保特別委員会の浜田委員長も辛かろう。野次を制し、委員会の秩序を保持するのは。だって、彼の父親、ハマコーは予算委員長だった時に共産党に対して、宮本顕治を指して「殺人者」と言い放ち、その職を棒に振った前歴があるのだから。

それはともかく、結果「強行採決」となるであろう安保法制。その時に「暴挙」だとか、議会制民主主義を踏みにじるとか、国会の品位、品格のことを定型文みたいに非難しても、すべては「あとのまつり」ということ。

国家の品格を取り戻すのは「今しかないでしょ、やるなら今でしょ」って流行り言葉でとりあえずの絞めなり。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...