ノンフィクションライターの沢木耕太郎が昭和50年代の初頭だったか。書き下ろした作品に「人の砂漠」という本がある。
8編の「物語」だ。
その中に「捨てられた女たちのユートピア」というのがある。
元売春婦だった女性たちが暮らす日本で唯一の場所。千葉県の館山にある施設。
いわば「囲い込まれた区域」の中で余生を送る女性たち。そこにユートピアを求めようした女性たち。
しかし、その囲い込まれた場所が、その人たちにとって、その尊厳に対して相応しいものであったのかどうかいうことも含めてユートピア足り得たのだろうかということ。
その施設を作り運営していたのはキリスト教系の社会福祉法人。そして、その
「かにたの村」という施設が今、どうなっているのかは知らない・・・。
当然、思考の飛躍でしかないのだが、「囲い込み」という言葉が「福島」を重なるのだ。「ユートピア」を求めていたという言葉からも。
大方の人は病んでいる。その中にはもちろん米軍、進駐軍の相手をしていた「オンリーさん」と言われて人たちもいる。
彼女たちを“慰安婦”と呼ぶのはいかがかと思うが、軍隊と慰安婦は、いつの時代でも「付き物」であったという底辺の一つの例だ。
ある意味戦後のこの国を「支えた」人達なのだとも思える。束の間、兵士の“欲望”を排出させ、“暴走化”を止めていたという意味でも。
その本には「視えない共和国」という沖縄の与那国島の人たちの戦後を描いたものもある。
なぜかあの時代に書かれたノンフィクションが今に重なるような気分になってくるのだ。
沢木はこの人の砂漠のあとがきにこう記している。
「アルベール・カミュは、その最後の作品集を「“追放と王国”と名付けた。追放されてしまった人間の悲哀をカミュは多様な方法で書分けようとした。しかし、追放のあとの王国は見えてこなかった。
なんと砂漠の静まり返っていることか。
すでに夜。私は一人きりだ。
おそらく人は誰しも無垢の楽園から追放され、“人の砂漠”を漂流しなければならないのだ」と。
詩人長田弘の全詩集がきょうの新聞に紹介されていた。そこにあった一節。
「人生は何で測るのか。本で測る。同じ本を読み返すことで測る」。
「一体、ニュースと呼ばれる日々の破片が、私たちの歴史と言うようなものだろうか。あざやかな毎日こそ私たちの価値だ」。
そして・・・。
「死は言葉を失うことではない。沈黙というまったき言葉で話せるようになる、ということだ」。
また読み返さなければならない本が出来た・・・。
本と時間と視力、体力とだ。
それにしても日曜の夕方の時間、あざやかな時間なのかもしれない。
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