生と死。それをどう考えるかどう捉えるか。人間にとっての究極の「課題」。
なにも大それたことを言うつもりではないが。
昔、茶の湯について小文を書いた時、「生と死の狭間にある静謐」という言葉を使った。
利休七哲と言われる高弟がいた。その多くは戦国武将だった。
戦に向かう前、その武将たちは静かに茶を点てたと言う。その静謐な茶室にあって、いや本陣の中にしつらえた茶の場にいて、彼らは何を考えたか。
現実のものとなる「死」についてだったのではないだろうか。
そんな話だ。
昭和という時代、今の平成という時代。そこにある生と死。
戦後、人々はどうやって生きるかを、「生きる」ということばかり考えていた。
戦争と言う死の恐怖から解放されて。
黒沢明の映画「生きる」。それはこの国の官僚主義への抵抗がテーマではあったが。
♪命短し恋せよ乙女・・・♪。ゴンドラとブランコ・・・。
より豊かに生きるための経済成長。
死の対極としてあった生。
戦後という時代を表層する言葉は「生」だったと思う。
戦前、戦中。「死」とう言葉は“美しい言葉”だとされてきた。隣り合わせに常に「死」があった。多くの国民が、兵士が、死の覚悟を強いられてきた。
いや、強いられたのではないかもしれない。当然のこととしてあったのかもしれない。
「生きて帰ってこい」という家族の願いは“小さな願い”だったような。
戦時中を「死の時代」と呼ぶならば、戦後は、その70年にわたって「生の時代」とも呼べる。
そして、対極にある「生」と「死」。やはり対極にある「戦争」と「平和」。
それが今は「並立」しているかのように語られる。
「3・11」。多くの死者を見た。死を見た。知った。多くの「死」があったから「生」への渇望が生まれた。
身近に、当事者として「死」に遭遇した人達は、強く生きることを誓った。
原発事故は、その直接被ばくだけではなく、内部被ばく、食品による健康被害、子供に危惧される甲状腺癌への懸念を生んだ。
被ばくから逃れるために避難した人達には、さまざま環境の変化による「不遇の死」を迎えた人も居る。
織田信長は「人生わずか50年」と謡った。その時代を共にした利休は72歳までは生きた。
人生50年と言う時代は長く続いた。
そして今は平均余命、平均寿命は80歳を越えた。
80歳を越えても「生きる道」を模索している。
「3・11」によって、あまりにも多くの死を知った人たちは、死生観を変えていったのだろうか。変えたと思う。
にも関わらず「死」に直結することが、70年前に回帰するかのように、言葉として弄ばれているようだ。
戦争と平和は共存しない。トルストイが言葉として並立させただけだ。
あの「3・11」で、死に対してあれだけ恐怖を覚え、生きる算段に腐心したにも関わらず、「人為的なものとしての死」が、それは連日伝えられる殺人事件とは全く別物として、それが指呼の間に生まれるかもしれないのだ。
平和のための戦争。そんな論理は成り立たない。国が生きるために兵士が死ぬ。それだって不条理なのだ。
だから、死を不条理なものとしないようにしなくてはならないのに。
だからあらためて考える。死とは何か、生とは何かということを。
あくまでも「生きるための時代」であって欲しいものだと。
「生きる時代」とは、あくまでも「死の可能性」を限りなく排除していくことなのだとも思うのだけれど。
「生きている限り、人間は未完成」。103歳の芸術家、篠田桃紅の言葉を考えてみる。「いつ死んでもいい」なんて嘘、その言葉も併せて。
2015年5月20日水曜日
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