2015年5月17日日曜日

「絶対」という言葉

先日の安保法制閣議決定後の会見で安倍はこう言っていた。

「アメリカの戦争に巻き込まれると言う漠然とした不安をお持ちの方にここではっきり申し上げておきます。そのようなことは絶対ありません」と。

安倍の言葉にはいつも漠然とした不安がつきまとう。

会見もプロンプターに書かれた字を読み上げていた。その原稿は官邸内やそれに連なる誰かが書いていたものだ。
安倍は読み上げているだけ。

だから、安倍の口から発せられた言葉は、本人の“言葉”そのものとは思えない。
大方わかる。他人が書いた原稿を読み上げている時は、いわゆる“滑舌”が悪い。アメリカでの演説の時もそうだった。

自分の素直な言葉ではないから喋り難いのだ。

「アメリカの戦争に巻き込まれることは絶対に無い」。その断言した言葉をどれくらい信用すればいいのか。

官僚が書いた言葉は、言葉としてあまりにも未成熟だ。その言葉の持つ意味がわかっていない。なんでも断言調に言ってみたりする。
平和とか安全とか、誰でもがわかりやすいような言葉を安易に使う。

でも、その言葉の持つ本意は脇に置かれているし、その言葉自体が探求されていない。

人にとって「絶対」とは何か。

それはこの世に生を受けた者がやがていつかは死ぬ。それだけが唯一の「絶対」だ。

絶対に裏切らない。そう聞かされて裏切られた人が何人いることか。
絶対にキミを幸せにする。守る。そういわれて結婚して何人の人が別れる道を選んだことか。

「死」以外に絶対と言う言葉は無い。

「絶対」を絶対守れるのか。保障出来るのか。


備える・守る。こういわれてそれを否定する人はいない。抑止論とても異論は持てない。その言葉に限れば。
否定できない言葉を並べて事を単純化するのが今の政権の「一つの手法」なのだ。

心と感情に訴える言葉を並べても、それは現実論の中では意味をなさない。

福島の原発事故。第一次安倍政権下、あの事故をまったく想起させるような質問があった。冷却機能の問題。全電源喪失。

安倍は答えている。「そのような事態にはまったくならない」と。
この“食言”の追及は曖昧なままだ。
今は、「安全問題」をすべて規制委に丸投げしている。

この安倍政権、どうも“二枚舌”の感ありだ。御側用人、自分の意見を持たない官房長官は「オスプレイは横田には配備されない」と言った。
数日後、アメリカは横田配備を言明した。聞き苦しい言い訳に終始していた。

とにかく、議事録が残る「国会」で、国権の最高機関である国会を軽視しようが無視しようが、その場で「絶対に巻き込まれない」と言明させて欲しい。

その「絶対」をアメリカがどれだけ重視しているのか。していないだろう。
強力なものになった日米同盟を盾にとって、「アメリカの戦争に参加しろ、協力しろ」と言ってくるだろう。

その要求を無視できるはずもない。

官僚が書いたものであろうがなんであろうが安倍の「言葉」は“軽い”のだ。
しかし、単純化された言葉にこそ大衆はなびく。ということ。
かなりのアジテーターなんだろうな。

でも、安倍はある意味「利用」されているのかもしれない。それに本人が気づいているかどうかでもあるし。

それにしても空は青く穏やかなのだけど。

長田弘の詩、「最初の質問」。
その結びの部分。
“時代は言葉をないがしろにしている。あなたは言葉を信じていますか”。

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