2015年5月15日金曜日

「知憲」のすすめ

福沢諭吉の名著「学問のすすめ」という本の名前をパクってみたものです。
諭吉先生は、学問のあるものは富貴な者になり、学問の無いものは貧乏のままだみたいなことを書かれており(これは曲解かもしれないが)、さすがお札の肖像画になるお方だとお見受けしましたが・・・。

当時は富貴な者として議員さんが入っていたのかどうかはともかく。

安保法制関連法案11本が閣議決定された。憲法との関係においても大いに疑義のあるものが。安倍の会見はなぜか憲法への言及を避けていたようだった。

憲法。改憲・護憲に国論は二分されているようであり、なにかと一部では、この一部と言うのは国会や永田町、メディア、学者さんのことを指しているのだが、大方の国民は憲法というものを未だよく知らない。

「憲法って知っているか」と聞く。全員が「知っている」と言う。そりゃそうだ。公民の授業で習っているはずだから。
「憲法って何だ」と聞く。答えは返ってこない。「憲法の精神とは」と聞いてもだ。
まして、「憲法は何条から成り立っているか」と聞くと、9条と答える人もおり、いや50条くらいかなという人もいる。
憲法を“通読”した人はあまりいないということだ。

「憲法を知らずして、憲法を語る勿れ」だ。

それは今の憲法論議が戦争か平和かという、つまり前文と9条の事だけに「矮小化」されてニュースとされているからだ。矮小化というのはいささか語弊があるかもしれないが。

たしかに、政権や野党も含めて、改憲とは9条の戦争放棄をめぐる話であり、武力行使の話しだとばかり言っているから、いや、それだけを目指しているからそうなるのかもしれない。

押し付け憲法論議もそのことに収斂されている。

その前に、日本人として、日本国憲法とは何か、何が記されているのかを知っておかねばならないと思うのだ。
「六法」とは何かと聞く。今や「六法」をその法の名前を挙げられる人も少ない。六法全書なんていう分厚い本をいつも机の前に置いていたこと、小六法を持ち歩いていた頃とは雲泥の差の感がある。

議員手帳というのがある。衆議院議員には衆議院手帳が交付される。参議院議員には参議院手帳と言うのが交付される。
その手帳は、国会内の書店に行けば買える。おそらく政治記者はそれを持っているはずだ。用途は単なる予定を記した手帳であるとしてもだ。

その手帳には憲法と国会法が載っている。手帳の中にそれがあるのだ。
国会議員のどれだけが、憲法を読んでいるのだろうか。通読しているのだろうか。はなはだ疑問なのであり。

公明党の言う「加憲」なんて、現行憲法の25条を敷衍した法律を作ればいいのであって、まさに“まやかし”論なのだ。

立憲主義、基本的人権の尊重、平和主義、国民主権。その原理を理解するという事、それが憲法の本質であるという事。
「そもそも憲法とは」という“そもそも論”、“本質論”をわきまえないでの憲法論議には「うんざり」してくるのだ。

それが原発についても当てはまる。
再稼働派は言う。エネルギーの確保、それによる経済成長を。反対派は言う。再び福島のような事故が起きないように。

そのいわば二項対立で終始しているの感。

原発の本質は何か。その危険性の本質とは。すでにして六ヶ所村の地中に置かれている、行き場の無い放射性廃棄物の存在なのだ。何世代にも亘って背負い続けなければならない“業”のごときもの。

もはや、再稼働があろうとなかろうと、すでにして貯蔵されている「核のゴミ」。それは海外からも持ち込まれているし。

それを論議の俎上に上げるひとは少なくなってきた。
「カネ」と並んでの原発の本質論なのに。

目先論に終始している。

原発からは今の科学や人知では処理しきれないであろう「廃棄物」が出るという事。役人も学者もそれを知っているのに口をつぐんで言わないということ。

だから、もう一回、原発の「そもそも」を、「本質」を知ろうとしないと。
「知原発」のすすめだ。「知憲」とも重なる視点なんだけど。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...