2015年5月22日金曜日

「誤りがあったとは言えない」という語。

きのう出された「イスラム国」による人質事件の政府の対応検証委員会の報告書。
「政府の判断や措置に人質救出の可能性を損ねるような誤りがあったとは言えない」。

「あったとは」の「とは」とはどう理解すればいいのか。普通の日本語遣いなら「誤りがあったとは言えないが・・・そう思われても仕方ない」というようになるはずだけど。

新聞の見出しのように「誤りない」と断言したとも思えないのだ。どこかに“逃げ道”を用意したかのような。

この検証委員会には、とにかく“有識者”と称される人たちが入っている。こういう類の委員会に入れば「類似公務員」というような身分の扱いにされるらしい。守秘義務が課せられるという意味においても。

公表された報告書の中でも、その有識者と称する人達の間から、政府の対応について、いささかの“疑念”もどきものが表明されている。

それを勘案したのだろうか。「誤りない」と断言したかったのを「誤りがあったとは言えない」という曖昧な表現にしたのではないか。

いかにも“優秀”な官僚が書きそうな文章の典型だ。

とにかくこのところ、いや、以前からも「永田町・霞が関」で書かれる文章は極めて不明瞭だし、この種の第三者をいれた「隠れ蓑」のような組織が出すものの言葉は、責任逃れが多すぎる。

原発事故検証委員会、事故調がそのいい例だ。結論らしき結論を導き出せない。出さない。すべてがうやむや。

そう、隔靴掻痒。曖昧模糊。

法律にしてもそうだ。法案作成に携わる官僚の作文。その多くに「どっちにもとれる。どうにでもとれる」というものが多い。
作成の過程で、その成立を図るために、あちこちの顔を立てるために、こじつけで書かれる文章。それはもちろん、野党が念頭にあるのではなく、与党の中の「族」対策なのだけど。

そして、不可解な文章を書ける官僚が優秀な官僚とされて出世していくという「構図」。

「官語」にあって「人語」に非ずということか。

その「人語」という言葉を長年使ってきている、普段は「気の抜けたサイダー」みたいなことを書いている新聞のコラム。かつては寸鉄人を指すがごとき名文家が居たものだが・・・。そのコラムが昨日と今日は久々にヒットを放っているの感ありだ。

昨日は、数日前に、ここに書いた「戦争には絶対巻き込まれない」という安倍の言に苦言を呈したが、そのことではない原発再稼働にからめてだがこう書いていた。

「絶対に有り得ない」などと気軽に言うことの無責任さが暴かれている。「絶対は在り得ない」。

そして今日は、その担当記者の語ではないが、官僚を長年務め、国会議員も経験し、官邸にもいた慶応大学の松井孝治教授の言を借りて、安倍の「ポツダム宣言」問題を書き、“つまびらかにしていない”発言を批判しこう結んでいた。

「政治家は、言葉で生き、言葉で滅びる」と。

生きるも滅びるも今の政治家の多くは特に要職にある、大臣と言う立場に酔っている人達は自分の言葉を持たない。官僚の書いたものを読み上げることを職としているのみのようだ。

松井教授は上手い事を言っている。共産党の志位委員長を指して「この人は手練れだ」と。「まさに志位氏の術数にはまり、あたかも王手飛車取りにあった如き感がある」とも。

ちょっと前までは、昭和の時代には、国会の委員会で質問の手練れの野党議員がいた。論理的に、一つ一つの質問を重ねて、最後に答弁の矛盾点を見事に暴き、閣僚を立往生させ、廃案にまで持ち込ませるといった言論のプロ。
質問で長広舌の“演説”や“自説の開陳”はしない。短いやりとりで、こう聞けばこう答えてくる、そしたらこう出る・・・。そんな一つの“技法”を心得ていた人が何人かいた。

今はいない。だからして保守の側の学者に「手練れ」と言わしめたのだろう。

それにしても「誤りがあったとは言えない」という曖昧言語で事を決着させてしまうという事のむなしさよ。

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