2015年5月27日水曜日

そもそも「戦争」とは

 「戦争」をめぐる議論が盛んである。その議論はほとんど噛み合っていない。
戦争をしたい人とまでは決めつけたくないが、明らかに政権は好戦論だ。
疑念を呈する人はあくまでも疑念を持ち出す。

自説、持論の繰り返しということか。

そして、その議論は、戦争法案をめぐる議論は、すべからく、法的問題や、国際的問題、あるいは歴史的問題含めて“技術論”なのだ。

本質論はされていない。それは憲法論議がそうであるように。
そもそも「憲法」とはという議論を聞いたことが無い。
憲法論議は前文と9条をめぐる「法理論」の話しだ。

戦争とて然りだ。戦争とは何か、なぜ戦争が起きるのか、なぜ戦争を必要とするのか。そんな「そもそも論」は「いまさらバカなことを言うな」とばかりに一顧だにされないだろう。

安倍政権が撒いた「戦争論議」の土俵に野党は知らず知らずのうちに乗せられて、それこそ“戦争に巻き込まれている”のだ。

戦争の反対語は平和なのか。平和のための戦争って有り得るのか。
安全保障問題が政治の俎上に上がってから久しい。しかし、それの「入り口論」を確とした論議を聞いたことが無い。

さっき民主党の岡田代表が「平和主義」とは何かと問いかけていたけれど。

3・11があって、原発事故があって、事故を起こした現場は、まさに戦場のようなありさまだった。
人は「原発戦争」とそれを呼んだ。もちろん、原発そのものをめぐる論議も武器を持たない戦争のようなものではあったのだが。

決死隊という言葉が溢れ、特攻隊という言葉も無責任に使われ、命を落とすのは誰だとも言われ、「戦場のような光景」とどのメディアも書いていた。

平和な核、平和なエネルギーが“牙”をむいた。平和なはずのエネルギーが戦争を生んでいた。

70数年前、日本は戦争をした。そして敗れた。戦後は平和がもたらされたという。70年の長きにわたって。
憲法は平和憲法と呼ばれ、平和に耽溺する若者と揶揄され、平和ボケなどという言葉も生まれた。

その世相の中で、しかとした戦争の“牙”は磨かれていたのだ。

アメリカが戦後の平和をもたらした、という。ならばアメリカは本当に平和国家なのか。
違う。国内では自由平等、人権国家としながら、あの当時、アメリカ国籍を持っていた日系人を差別の差別し、収容所にまで送り込んだ。
黒人差別は後を絶たない。自由平等なのかどうか。

朝鮮戦争に参戦し、ベトナム戦争に参戦した。多くの彼我の兵士が死に、民間人も犠牲になった。
近年は、アフガン戦争に介入し、イラク戦争を引き起こした。アメリカの行為が平和をもたらしたか。

逆に悪化させている。それは同じ民族同士を戦わせることに象徴されているように。
アメリカは平和国家というよりは好戦的な国家なのかもしれない。誰かは「世界の警察官」と名付けていたが。

沖縄はじめ日本各地に米軍基地が存在する。彼らは何のために日本に基地を置いているのか。日本を守るためか。日本にとっての抑止力か。

違う。極東(古い表現だが)に睨みを利かせ、アメリカの戦争をするためにいるのだ。
アメリカに頼らず、なぜ日本の自衛隊が日本を守れないのか。その日本を守るための自衛隊がアメリカの要請で、同盟という名のもとに海外に戦争に出かける。

この「ばかばかしいカラクリ」を本当の保守は見抜いている。見抜けない、見抜こうともしないのが安倍政権、それに連なる与野党の国会議員、そして目先のことしか伝えない、いや、伝えたともいえないくらいの、視野狭窄にも等しいマスコミだ。

戦争とは人が人を殺すことだ。
その殺すという行為はいささかの罪科にも問われない。

戦争とは人間の持つ“欲望”を成就させる場だ。
領土、資源エネルギーの確保・・・。
すでにして経験済みの事。

テレビ中継の委員会の場では激しい言葉のやり取りが交わされている。
しかし、議員傍聴席に人はいなかった。なんかやはりむなしいのだ。

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