2015年5月8日金曜日

頑張っている「地方紙」のジャーナリズム

インド生まれでイギリスの作家ジョージ・オーウエルの言葉にこんな言葉がある。

「1984年」を書いた作家だから余計に納得できる部分もあるのだけど。

“ジャーナリズムとは報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない”
言われてみればその通り。「広報」としてのジャーナリズムのなんと多い事か。
この国では・・・。

新聞にはジャンル分けとして全国紙、ブロック紙、地方紙というのがある。

全国紙の中には完全に「広報」と化した新聞もある。
ジャーナリズムを追求していた全国紙も、なにやら論調は変わり、どこかで「両論並立」、その社の主張が見えなくなったところも多いと感じる昨今。

政権の異常なまでのマスコミ介入、あげく、さまざまな手法を講じての、いわば“脅し”。

今、この国の姿がそうであるように、本来のジャーナリズムが持つ「不撓不屈」の精神は薄らいでいるようだ。

とにかく「政権」からの“圧力”を恐れ、かろうじて“他言”を引用することによって、どうにかその体裁を保っているような。

全国紙の全ての記事がそうだとは言わないが、明らかに自粛し、“茶色化”しているようにも思えて仕方が無い。

それに比べて地方紙の中には説を曲げない、ジャーナリズム精神を貫いている新聞が見られる。
例えば東京新聞。例えば神奈川新聞。その論調は政権に対して厳しい。厳しいという事は「健全」だということだ。なぜなら、そうあるべきだから。本来は。

先の戦争。その戦争責任は時の政権や軍部だけにあるのではない。新聞が煽った世論。軍部が火を点け、それの呼応した報道。引くに引けなくなった世論の醸成。

今、沖縄では琉球新報と沖縄タイムスが気を吐いている。

政権にとって書かれたくないことを堂々と報じている。

ブロック紙もしっかりしている部分がある。例えば西日本新聞や北海道新聞。

新聞の経営は購読料と広告収入から成り立っている。
その論調によっては収入源が左右されることだって必至だ。

その推移がどうなっているかは知る由もないが・・・。

「3・11」。河北新報の記事は際立っていたと感じる。地元宮城県だけにとどまらず、原発をめぐる不条理や問題点のさまざまを書いた。

福島の地元紙はどうか。その論調はよく見えない。大震災や原発事故の「記録」を残したと言う点では価値があるものだったと思えるが・・・。

テレビでも然りだが、いや、もうNHKには辟易した。全くの広報だ。
番組だって、どこかで“検閲”が入っている感もありだし。

民放も政権与党の手中に落ちた。かろうじてTBSの報道系番組が気を吐いているようにも受け取れるが、それもどうなって行くのか・・・。

民放は広告収入が、その経営のカギを握っている。広告主は直にテレビ局にクレームは入れない。新聞だって然りだ。

誰も指摘しないが、表面だって言わないが、見落としているのが広告代理店の存在。例えば電通。巨大な権力組織となった。選挙ともなれば政党の選挙も全面的に支援する。電通の意向に刃向えるメディアは・・・。

無理だ。

テレビ局の幹部の子弟は電通に就職する。いや、就職出来る。電通の幹部の子弟はテレビ局に入れる、入る。

それを「相関図」とは言わないが・・・。

「3・11」の直後、被災した地方紙は、手書きの新聞を作って避難所に張り出していた。
必要な情報を提供すべきとの使命感によって。

その頃、その会社の、全くのローカル紙だった新聞社の記者は言っていた。
「我々は、今は、ジャーナリストではありません。ローカリストです」と。

そのローカリストに救われた被災者も多かったと聞く。

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