2019年12月31日火曜日

「一杯のかけそば」のあった頃

大晦日。だから特に何がというわけではないが、我々の風習の中に「年越しそば」というのがある。
「ねえ、ねえ何で日本人は大晦日にそばを食べなくてはいけないの?」とチコちゃんに聞かれたら多分「ぼうーっと生きてんじゃねえよ」という怒りの火炎が吹いてくるだろうが・・・。

もう30年以上も昔、ブームを巻き起こした本があった。
「一杯のかけそば」。
著者については敢えて触れたくないが、物語は物語として存在している。
読んだ人は大方泣いただろうから。

読んだ覚えのある方も多いだろうが、そのあらすじを。

「この物語は、12月31日、札幌の街にあるそば屋 「北海亭」での出来事から始まる。 そば屋にとって一番のかき入れ時は大晦日である。
夜、10時を過ぎると客足は途絶える。
最後の客が店を出たところで、店の主人とおかみさんがそろそろ暖簾を下げようとしていた時、二人の男の子を連れた女性が入ってきた。
「いらっしやいませ!」と迎える女将にその女性はおずおずと言った。
「あの・・・かけそば・・・一人前なのですがよろしいでしょうか」。
「えっ・・・どうぞ、どうぞこちらえ」。
暖房に近い2番テーブルへ案内しながら、カウンターの奥に向かって、 「かけ1丁!」

主人は、チラリと3人連れに目をやりながら、 「あいよっ! かけ1丁!」 とこたえ、1人前半の量を茹でる。
やがて食べ終え、150円の代金を支払い、「ごちそうさまでした」と頭を 下げて出ていく母子3人に、 「ありがとうございました! どうかよいお年を!」 と声を合わせる主人と女将。

その翌年も、同じような時間に3人が来店。「すいません、かけそば一人前よろしいでしょうか。

おいしいね……」 「今年も北海亭のおそば食べれたね」 「来年も食べれるといいね……」 食べ終えて、150円を支払い、出ていく3人の後ろ姿に 「ありがとうございました! どうかよいお年を!」

その次の年、店内の客足がとぎれるのを待っていたかのように、母 と子の3人連れが入ってきた。 兄は中学生の制服、弟は去年兄が着ていた大きめのジャンパーを着ていた。 2人とも見違えるほどに成長していたが、母親は色あせたあのチェックの半 コート姿のままだった。 「いらっしゃいませ!」 と笑顔で迎える女将に、母親はおずおずと言う。 「あのー……かけそば……2人前なのですが……よろしいでしょうか」 「えっ……どうぞどうぞ。さぁこちらへ」。


カウンターに向かって 「かけ2丁!」 それを受けて 「あいよっ! かけ2丁!」 とこたえた主人は、玉そば3個を湯の中にほうり込んだ。 2杯のかけそばを互いに食べあう母子3人の明るい笑い声が聞こえ、話も 弾んでいるのがわかる。。 「お兄ちゃん、淳ちゃん……今日は2人に、お母さんからお礼が言いたいの」 「……お礼って……どうしたの」 「実はね、死んだお父さんが起こした事故で、8人もの人にけがをさせ迷惑 をかけてしまったんだけど……保険などでも支払いできなかった分を、毎月 5万円ずつ払い続けていたの」 「うん、知っていたよ」
「支払いは年明けの3月までになっていたけど、実は今日、ぜんぶ支払いを 済ますことができたの」 「えっ! ほんとう、お母さん!」 「ええ、ほんとうよ。お兄ちゃんは新聞配達をしてがんばってくれてるし、 淳ちゃんがお買い物や夕飯のしたくを毎日してくれたおかげで、お母さん安 心して働くことができたの。よくがんばったからって、会社から特別手当を いただいたの。それで支払いをぜんぶ終わらすことができたの」 「お母さん! お兄ちゃん! よかったね! でも、これからも、夕飯のし たくはボクがするよ」 「ボクも新聞配達、続けるよ。淳! がんばろうな!」 「ありがとう。ほんとうにありがとう」。
「今だから言えるけど、淳とボク、お母さんに内緒にしていた事があるんだ。
それはね……淳の書いた作文が北海道の代表に選ばれて、全国コンクールに出品され ることになったので、参観日に、ボクが参観日に行ったんだ」 。
「先生が、あなたは将来どんな人になりたいですか、という題で、全員に作文を書いてもらいました。淳くんは、『一杯のかけそば』という題で書いてくれました。これからその作文を読んでもらいますって。『一杯のかけそ ば』って聞いただけで北海亭でのことだとわかったから……淳のヤツなんで そんな恥ずかしいことを書くんだ! と心の中で思ったんだ。 作文はね……お父さんが、交通事故で死んでしまい、たくさんの借金が残 ったこと、お母さんが、朝早くから夜遅くまで働いていること、ボクが朝刊 夕刊の配達に行っていることなど……ぜんぶ読みあげたんだ。 そして12月31日の夜、3人で食べた1杯のかけそばが、とてもおいし かったこと。……3人でたった1杯しか頼まないのに、おそば屋のおじさん とおばさんは、ありがとうございました! どうかよいお年を!って大きな 声をかけてくれたこと。その声は……負けるなよ! 頑張れよ! 生きるんだ よ!って言ってるような気がしたって。それで淳は、大人になったら、お客 さんに、頑張ってね! 幸せにね!って思いを込めて、ありがとうございま した! と言える日本一の、おそば屋さんになります。って大きな声で読み あげたんだよ」。
カウンターの中で、聞き耳を立てていたはずの主人と女将は溢れる涙を拭っていた。
「作文を読み終わったとき、先生が、淳くんのお兄さんがお母さんにかわっ て来てくださってますので、ここで挨拶をしていただきましょうって……」 「まぁ、それで、お兄ちゃんどうしたの」 「皆さん、いつも淳と 仲よくしてくれてありがとう。……弟は、毎日夕飯のしたくをしています。 それでクラブ活動の途中で帰るので、迷惑をかけていると思います。今、弟 が『一杯のかけそば』と読み始めたとき……ぼくは恥ずかしいと思いました。 ……でも、胸を張って大きな声で読みあげている弟を見ているうちに、1杯 のかけそばを恥ずかしいと思う、その心のほうが恥ずかしいことだと思いま した。 あの時……1杯のかけそばを頼んでくれた母の勇気を、忘れてはいけない と思います。」

昨年までとは、打って変わった楽しげな年越しそばを食べ終え、300 円を支払い「ごちそうさまでした」と、深々と頭を下げて出て行く3人を、 主人と女将は1年を締めくくる大きな声で、 「ありがとうございました! どうかよいお年を!」 と送り出した。

また1年が過ぎたが、待ちに待った母子3人は現れなかった。
次の年も、さらに次の年も、3人は現れ なかった。
店内を改装し、 真新しいテーブルが並ぶなかで、1脚だけ古いテーブルが中央に置かれて いる。 「どうしてこれがここに」 と不思議がる客に、主人と女将は『一杯のかけそば』のことを話し、この テーブルを見ては自分たちの励みにしている、いつの日か、あの3人のお客さんが、来てくださるかも知れない、その時、このテーブルで迎えたい、と。

それから更に、数年の歳月が流れた12月31日の夜10時過ぎ、入口の戸がガラガラガラと開いた。北海亭の主人と女将以外は誰も会ったことのない 3人家族。入って来たのはスーツを着てオーバーを手にした二人の青年だった。その時、和服姿の婦人が深々と頭を下げ入ってきて二人の青年の間に立った。 「あのー……かけそば……3人前なのですが……よろしいでしょうか」 その声を聞いて女将の顔色が変わる。十数年の歳月を瞬時に押しのけ、あの日の若い母親と幼い二人の姿が目の前の3人と重なる。おろおろしている女将に青年の一人が言った。 「私達は14年前の大晦日の夜、親子3人で1人前のかけそばを注文した者 です。あの時、一杯のかけそばに励まされ、3人手を取り合って生き抜くことが出来ました。その後、母の実家があります滋賀県へ越しました。私は今年、医師の国家試験に合格しまして京都の大学病院に小児科医の卵として勤 めておりますが、年明け4月より札幌の総合病院で勤務することになりました。その病院への挨拶と父のお墓への報告を兼ね、おそば屋さんにはなりま せんでしたが、京都の銀行に勤める弟と相談をしまして、今までの人生の中 で最高の贅沢を計画しました。それは大晦日に母と3人で札幌の北海亭さん を訪ね、3人前のかけそばを頼むことでした」 うなずきながら聞いていた女将と主人の目からどっと涙があふれ出る。
気を取り直した女将は 「ようこそ、さあどうぞ。 おまえさん、2番テーブルかけ3丁!」涙でぬらした主人、 「あいよっ! かけ3丁!」。


だから何かを言いたいわけでも無い。
テレビが世相として流す「年越しそば」の光景を見ながら思い出したこと。

からから亭も今年は閉店。来年も掛け声はありませんが御贔屓に。

2019年12月26日木曜日

宴のあと、宴の前


三島由紀夫が書いた小説に「宴のあと」という当時“物議”をかもしたものがある。
小説であり、登場人物は仮名だが主人公は、かつて外務大臣も経験した政治家有田八郎と、東京白金台にあった高級料亭「般若苑」の女将畔上てるい。ま、大人の恋物語とでも言おうか。当時、評判になった作品。有田八郎が都知事選に立候補していたから。
結果、有田は選挙に敗れ、三島を相手どった裁判を起こしたが係争中に有田は亡くなった。
世に言う“プライバシー”裁判。プライバシーという言葉が“認知された”嚆矢だ。

般若苑の桜は見事だったと聞く。
因みに般若苑も倒産、その後、経緯はわからないが、その跡地には白亜の殿堂と見まがうようなソフトバンクの孫正義の豪邸がある。
般若苑には数多くの骨とう品や家具、美術品があった。それらは、跡地の脇にある畔上家にゆかりのある人の家に管理されている。

今年の春、新宿御苑であった「総理と桜を観る会」を巡って数々の疑念や問題点が指摘され続けている。
この問題が報じられた時に浮かんだのが「宴のあと」という言葉。

政治を取り巻くあらゆる“醜さ”が表出しているから。

嘘と欺瞞と隠ぺい。それへの官僚の愚かな存在。
宴の場で得意満面ではしゃぎ回っていた「お祭り男」の安倍。能天気な夫人。
神輿に乗せられただけの醜い男と女。

年が明ければ国民は忘れる、高をくくっていた菅や二階。
そうは問屋が卸さない。

そして折しも、外国の「宴の場」、カジノ。あの煌びやかな遊びの場を巡り、
またも自民党の政治家が誘致を巡る汚職の疑いで逮捕された。
次の逮捕もあるらしい。

I Rとか言ってなにかと美しい政策のように喧伝をつづけてきた政権。
IR法とはカジノ法だ。日本を博打天国にするという。
パチンコだけでもういいでしょ。外国企業の資金源にされるのは。
カジノには、博打には必ず暴力団やマフィアが付いてくる。
そういえば御苑の花見の会の宴にもそれらがいた。菅は嬉々として並んで写真に。並んで写った方は嬉々としてネットに。
菅は「紛れ込んで来たやつと突き放し、隠す、隠す。

「反社勢力という定義は無い」と閣議で決めるありさま。実際には明文化された定義があるにもかかわらず、無いとする。
厭な奴らだな~。そうしないとIR法の有意性に懸念が生じるからだ。

反社勢力は健在だ。閣議で“嘘”が決められている時、広域暴力団・指定暴力団の内部抗争事件が発生。存在を誇示するかのように。

カジノ法案をめぐり、政権の内部にいた議員が取りあえずは300万の収賄で逮捕。醜い国ニッポンを見せつけられた思い。
カジノを経営する側には安い出費。お釣りは何億円。

カジノという煌びやかな宴の場。

かって郡山の著名な経済人がカジノにはまり、ラスベガスから「つけ馬」が付いてきた。
マカオ、ウオーカーヒルと転々と足抜きできず、ついに自己破産。みじめな老後の醜態を見せていた。

花見のことでもう一つ浮かんだ歴史の逸話。
「醍醐の花見」という秀吉にまつわる話し。
秀吉晩年の慶長3年。京都の醍醐寺三宝院で北の政所から始まって淀殿ら女性1,300人を招いて豪華な花見の宴を張った。
これとても己が権威を天下に見せつけるため。

半年後の9月、秀吉は亡くなる。

辞世。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
安倍にすれば「浪速」を置き換えて「御苑の事は・・・」となるのか。

日本の政治を、特に今年の政治を「宴の政治」と呼ぼう。
「宴の政治」とは地に足を付け、格差や貧困、少子高齢化など、山積する政治課題に取り組むよりも、意図的に人々の耳目を集める祝宴を作りだし、それを自らの権力維持の為に最大限に活用する政治だ。

令和の宴から始まって、御苑の宴、便乗したラグビーのパフォーマンスなど。。

今年の“宴”は終わりだ。
来年も新たな宴が待っている。
「スポーツの祭典、オリンピック」。

そのオリンピックを宴らしい宴、祭りらしい祭りとし、その中で、自らの権威を思う存分発揮しようとしているのだろう。
お茶坊主どもは、その“お流れ”頂戴に腐心する。

新たな宴の始まりだ。宴の前には9年近く前の「災禍」や未曽有の原発事故などは無かったことのようだ。

そして、人々はその仕組まれた宴、祭典に無条件に巻き込まれて狂喜乱舞する。

政治家が政治でしか出来ないことをしない。これを何と呼べばいいのか。

三島亡きあと令和の宴の後を誰が書くのか。書かねばなるまい。

2019年12月8日日曜日

男の「矜持」

「矜持」とは、「自信と誇り」「自信や誇りを持って、堂々と振る舞うこと」という意味だ。

アフガニスタンの支援活動に心血を注いでいた医師の中村哲氏が襲撃されて亡くなった。

往時、登山隊の医師としてアフガニスタンとパキスタンの国境に赴いた際、治療を懇願する貧しい人々を助けられなかったことが医師としての使命感を突き動かし、診療所を開設した。しかし、干ばつの影響で次々と命を落とす子どもたちの姿を見て、灌漑事業を行うことを決意した。
乾燥し、ひび割れた大地に水を引いて来た。
水は命に係わる。用水路を完成させたところには、いつの間にか小麦やかんきつ類の畑、高々と伸びた木々。大勢の子供たちが軒を連ねる商店の前を歩いて学校に通っていた。

用水路の確保、灌漑事業はとめどもなく続く。

ここ郡山も安積開拓と言う明治政府の政策で、猪苗代湖の水を苦心惨憺の末、引くことに成功した。
それ以前の郡山がどういうところだったか。

宮本百合子の「貧しき人々の群」という著作に詳しい。

中村医師は折に触れて経験に基づいた数々の言葉を残してくれた。

「平和には戦争以上の忍耐と努力が必要だ」。
4年前、一時帰国していた時の講演。
「アフガンでは米軍が落とした爆弾で、多くの子供たちが死んだ。
その米国と軍事同盟で一体化を目指す安倍政権について、“こんなバカな政権はない。憲法に従う義務はあるが、政権に従う義務はないと考えている”と。

現場主義を貫き、命の大切さを実践する男の「矜持」を見た。

中村医師の訃報が明らかになった日の夕方、官邸で記者団との立ち話で、通り一遍の悔やみの言葉を述べ、最後の言葉の語尾を言うか言わないかの瞬間、もう踵を返すようにマイクの前から立ち去った。せめて言葉を終えた後に、ひと時の瞑目、目礼があって然るべきだと。

中村医師と交流のあった上皇ご夫妻は、侍従を通じて哀悼の言葉を遺族に伝えられた。「驚き、深い悲しみを覚えているご様子だった」という。

国民の象徴であられた方の矜持の表れだ。

中曽根康弘が亡くなった。101歳の大往生。
中曽根内閣時、彼は官房長官に、内務省時代の先輩である後藤田正晴氏を三顧の礼を尽くさんばかりに官房長官に迎え入れた。
後藤田はその著書、「政と官」で憲法の順守、官吏の心得を書いている。
中曽根政治に“誤り”を見ると、諌言することに意を用いていた。

古武士風の風貌の中から、官僚、政治家の道を歩んできた人の少なくとも官僚斯くあるべしという「矜持」が垣間見えた人だった。

「桜を観る会」のことで世間がその不可思議さを感じているさなか、公邸にオリックス会長とともに、メジャーリーガーのイチローと食事をした。
イチローに国民栄誉賞の受賞を重ねて勧めた。
スポーツ紙の報道によれば、「野球を通じて私はフェアプレーの大切さを学んだ。ルールを破ったり、ごまかしたりするのは好きではないです」とイチローは述べたと言う。受賞をその都度固辞するように助言したのは弓子夫人だとも言われている。

安倍晋三、昭恵夫婦の間に、夫人の「内助の功」はあるのか。夫人が亭主の足を引っ張っているようにしか見えない。
古い言葉だが、タレント大好きの「ミーハー」な夫婦だ。

「桜を観る会」をめぐる数々の“疑念”。
名簿破棄の証拠隠しに始まって・・・。
数々の公私混同。愚かな宰相夫婦の姿を見る。

まともな政治家なら首相の行動、言動を諌めるべき官房長官。
安倍をかばうのに「ウソ」をつき、それを上書きし、平然と官邸に君臨している菅官房長官。官僚を屈服させることに快感をおぼえてでもおるのだろうか。
哀れな男だ。

野党のヒヤリングに対して答弁する官僚たちの言葉は嘘と欺瞞に満ちていることは誰が聞いてもわかる。
官僚としての「矜持」をかなぐり捨て、安倍や菅の意向を、顔色を伺う姿。
余りにも醜い姿だ。
彼らの言辞は日本と言う国の統治機能の激しい衰退を象徴しているようだ。

その醜さや欺瞞を追及しきれないマスコミにも“衰退”を感じる。

碩学者の安岡正篤氏は、その著書の中にしばしば“エリート”という言葉を官僚に当てはめ、その心がけを語っている。

安岡正篤は戦後の政界に「知性」としての影響力を与えて来た人だ。

田中角栄が総理を退陣するにあたって記者会見で述べた言葉の中に、「沛然としてふる驟雨に心耳を澄ます」という一節がある。安岡氏が手を加えた一文だと聞いた。

後藤田も安岡正篤も皆鬼籍に入った。
あまた人無きが如し。

きょうは日米開戦の日。なぜ軍部の台頭、独走を許したのか。政治家の力量が無かったから、官僚機構が腐敗していたからだとも聞く。

2019年11月28日木曜日

ローマ教皇と福島

ローマ教皇が来日した目的の主眼は「核廃絶」を唯一の被爆国で訴えること。

国連が核禁条約の批准を決めると、一番先に批准した国はバチカンだったという。
そして、来日の決め手となったのが、中村長崎県知事と松井広島市長の度重なる要請に応えたこと。もう一つが長崎の被爆直後アメリカ人カメラマンが撮った「焼き場に立つ少年」と題された一枚の写真だったとも聞く。

焼き場に立つ少年の写真がベッドの脇に置いてある。
気がつけば、何気なく置いたその写真の「彼」といつも顔を合わせているような気がする。
死んだ弟を帯紐でたすき掛けに背負い、まさに直立不動、両手をきちんと揃え、即席で作られたであろう「焼き場」が空く順番を待っている。幸いなことに背中の弟の顔は被ばくの影響をうけていないようだ。
少年の唇は固く噛みしめられている。歯が唇を噛んだのか。唇が傷ついているように見える。

かって聞いた話しでは、焼き場の順番が来ると、少年は背中から弟を下ろし焼き場に静かに横たえ、寝かせ、何も言わずにその焼き場を去って行ったと言う。
多分10歳くらい。弟は幼子だ。

その少年が何処の誰で、今はどうしているのか。
誰も知らない。

長崎・広島でのミサや集会で、教皇は核廃絶・平和・差別撤廃・貧困問題・環境問題について語って来た。
そのいずれもが「納得」出来る、いや、させられるものだった。

長崎のミサではあの「焼き場に立つ少年」の写真を正面に掲げていた。

天皇との会見のあと、安倍首相とも会談した。
核廃絶を巡る教皇の発言に対し、安倍首相の反応はあまりにも悲しいものだった。
核保有国と非保有国との仲立ちに努める、といった具合。
核禁条約の批准については触れなかったという。

東京でのイグナチオ教会、カテドラル教会で信者に語りかけ、東京ドームでのミサ。
福島のいわきの高校生の語りかけに耳を傾け、彼を癒すように抱擁した。

そして、東京での原発被災者との集会ではこんなことを語ってくれた。

“東日本大震災は地震、津波、原発事故の「三つの大規模災害」だ。災害は岩手、宮城、福島の3県だけでなく日本全土と全国民に影響を及ぼした。
 被災者は、自らの言葉と姿で多くの人々が被った悲しみや痛みを伝えてくれた。
 原発事故で汚染された田畑や森林、放射線の長期的な影響など、継続的な問題と向き合わなければいけない人も多い。
 震災からの完全復興までは時間がかかるかもしれないが、助け合い、力を結集すれば必ず果たせる。
 原発事故は科学的、医学的な懸念に加え、社会構造を回復するという途方もない課題がある。
 地域社会が再び築かれ、人々が安全で安定した生活を送れるようにならなければ福島の事故は完全には解決されない。
 この時代には技術の進歩を人類の進歩にしたいという誘惑があるが、立ち止まり、振り返ることも大切だ。“

その通りだ。

教皇帰国後、原子力規制委は女川原発の再稼働を認めた。
地域住民、近隣の町や村に表だった反対の首長はいない。

高浜原発を巡っては多額の金品が関電と町の助役とでやり取りされていた。
愛媛県の伊方原発。あの地域では昨今地震が多いようだ。

カトリックのミサ曲でもあるベルディ―のレクイエム。
キリエ、エレイゾンと言う祈りの言葉で始まる。キリエとは「主よ憐れみたまえ」という意味だとか。
そして「怒りの日」という楽章。
それが現実味を帯びてくるような。

全くの余談。
麻生太郎はカトリックの信者である。洗礼名はフランシスコ。
幼児洗礼だった故か。彼からその信者としての倫理観、哲学は全く感じられない。
名ばかり信者。この国の空気と重なるような。偽という字で。

2019年11月18日月曜日

「桜を観る会」で思う安倍の軽さ、嘘の強弁

安倍首相主催の桜を観る会のことが連日、報道されている。
中味は周知のような事だ。

“一度嘘をつくとそれをごまかすため、また嘘を言う。
「ウソの上塗り」。よく言われてきた言葉だ“。

桜を観る会には行った事がある。
内閣総理大臣名の案内状を貰って。

いわゆる官邸記者会のキャップには送られていたもの。
“観桜会”(かつてはそう呼ばれていた)はきらびやかな風情も無く、人もまばらで、テントに設えられたテーブルの飲食物も簡素なものだった。
写真を撮る人もいた。
しかし、今のスマホブームとは大違い。
スマホとはまことに“不行儀”な文明の“利器”だ。

新宿御苑は子供の頃の遊び場だった。たしか20円くらいの入苑料を払い、新宿高校の側から入り、遊びまわって、四谷側の大木戸門から出る。
常に閑散としたところだった。


桜については複雑な心境がある。「3・11」以来だ。
あの年も桜は見事に咲いた。被災者と接しながら「それでも春は恨まない」と納得させていた。
梶井基次郎の作品に「桜の樹の下には」という短編がある。その中にある一節「桜の樹の下には屍体が埋まってゐる」という一行が頭に残っていた。記憶が呼び起こされた。
坂口安吾の「桜の森の満開の下」も3・11時に思い出された小説。山賊が、夜道の峠で、“鬼女”と出会う。妖艶でありながら残酷な女との物語。

誰を何に喩えたかと言うことでは無いけれど。

今回の疑惑の一つの前夜祭の会場、ホテルニューオータニ。
「角福戦争」時、ニューオータニは田中派の“本陣”だった。
連日、そのホテルに通っていた。

安倍の源流「清話会」、つまり福田派。その“本陣”は赤坂プリンスホテルだった。
どっちのホテルに行くにも弁慶橋を渡った。橋の近くは昔、貸しボートがあった。その濠にも桜が咲き誇っていた。

時代はめぐる・・・。

ニューオータニが安倍の後援会の定宿になったとは・・・。
そう、赤プリは無くなったと聞く。解体されたと。

ホテルで行われる政治資金パーティー。事前の振込が原則。おひとり様2万か3万円。手渡しの現金制度は無い。

安倍のパーティー。5千円。会費は会場で安倍事務所の職員が現金を受け取り、まとめてホテル側に払ったという。領収書は渡されてるのかどうか。

パーティーに関るすべての書類は無いと安倍は言う。
菅に至っては「遅滞なく、内閣府で破棄しました」とほざく。
日本語の使い方を間違っているし、必要とされている政治を遅滞なく行う、という使い方だ。

言葉の“誤用”がこの問題の全てを物語っているのかもしれない。

会費5千円の前夜祭。立食と言えどもあり得ない。ホテルにはそれなりの「格」がある。立食といえども5千円の会費だと言うにはニューオータニの「格」が下がる。

「現金貰い、ホテル発行の領収書を手渡した」。一人一人から現金貰い領収書を手渡す。その所要時間は?
子供に計算してもらえばいい。受付で1時間以上はかかるはず。
これはカネにまつわることのおかしさの一例。

桜を観る会は、総理大臣名のいわば公文書的招待状で成り立つ。
安倍事務所のツアー参加呼びかけ文書そのものが“インチキ”だ。
私文書に過ぎない。

安倍は連日の様に官邸内で「総理番」記者との立ち話で釈明に躍起だ。
立ち話を「ぶら下がり」と全メディアが呼ぶ。誰が何にぶら下がるの?

あれはかつてのテレビ、ラジオのいわば「業界用語」。一本のマイクコードから、記者たちの後ろに設置したカメラに音声を分岐することから付けた“造語”。

新聞はぶら下がりと言う言葉を使うのを止めなさい。

その立ち話しでも安倍は開き直る。
“いわばですね”“いってみれば”“ようするに”。しどろもどろの接続語。
紙を読んでしかしゃべれない奴が、即座に反応しようとするとしどろもどろの意味不明言語となる。

“うそ”をついている証拠。

そして開き直る。喧嘩腰で。これ以上なんかあるかと。
総理番は政治記者に成り立ての若者。二の矢、三の矢を放つ力量は無い。
でも、食らいつくべきだ。
マスコミが世論から非難されないためにも。

国会の議席からの醜い野次。どうもお育ちと関係してようだ。

安倍の所業で日本は醜い。異形の国になって来た。
芸能人よ、納得の上の参加ならともかく「偉い人」に「ぶら下がる」のは辞めろよ。
もっとも、芸能人、タレントの類は「昭恵夫人」のお気に入りだから。
おお、夫婦善哉か。

各界の功労者や業績のあった人が招待の対象と言うのなら、あの「ボラ爺」こと、尾畠春夫さんでも招待して見ろや。
ま、見事に断られるだろうけど。

もう安倍の話しはきょうはこれで終わります。

2019年11月4日月曜日

「ウソ」で始まった東京五輪のこと。

このブログで何回も書いて来たつもりだ。
担当しているラジオの番組でも何回か言って来た。

「2020東京オリンピック反対」と。「開催を返上しろ」と。

復興五輪と言う呼称も名目だけ。五輪にカネはかけても被災地は蚊帳の外。

酷暑の中での、マラソンなどに投入された国土改革のカネ。
海の中の競技。汚泥と腐臭が漂う海。

そんな中、マラソン、競歩が札幌にさせられた。IOC会長のいきなりのような鶴の一声で。

IOCもJOCも組織委員会もすべて伏魔殿だ。
そして、招致にあたり、「アンダーコントロール」と虚偽の状況を天下に恥じることなくのたまい、「7月の東京は温暖な気候だ」とにわか気象予報士になった安倍の大いなる嘘。

それが「嘘」だと大方の日本人は、国際社会は知っていながら嘘を黙認した。
アンダーコントロール発言も然り。

平然と「ウソ」を言い放つは彼の生来の持つ環境か。

招致にはあれだけ舞い踊っていた安倍が今度の混乱に沈黙を守っているのが解せない。言いだしっぺはケツを拭くべきなのに。

オリンピック招致には必ず「カネ」が絡んでいる。汚職として辞任したIOC委員が何人いたことか。
今回のオリンピックの開催時期。
アメリカのテレビ、三大ネットワークによる圧力だ。大きなスポーツイベントが無い時期だから。
そのテレビがIOCに払う「放映権料」は莫大だ。放映権料が無いと肥大化したオリンピックは成り立たなくなった。

そして、公式スポンサーなるものが日本のテレビ界をいように扱っている。
カネ・カネ・カネ。


タヌキおやじと女狐の無意味な争い。IOC会長がなんで今さら札幌を言ってくる。日本の夏の気候なんてとうにご存知のはずなのに。
いや誰しも知っていることなのに。ドーハを引き合いに出してのイチャモン。

札幌市長も寝耳に水と言ってはいるが。
国民も選手も不在の権力者の暗闘。

過日、熱中症に詳しい医者と話をした。
「MGCにしても、ドーハの大会にしてもマラソンに勝った選手は、身体を暑さに耐えうるよう作り上げてきた。栄養から体組成まで。
ドーハで倒れた選手は暑さを甘く見ていた。速く走る練習と暑さに耐える練習とでは違う」と。彼とは全く“合意ある決定”をみた。

ドーハで選考をかち得た選手は札幌では勝てない。

アスリートファーストというはやり言葉。都民ファーストという無意味な言葉。
連呼されてきた。

小池の最後の嫌味言葉。まさに借り物。
ブレグジットをめぐる英国を悩ませている“合意無き離脱”の借りもの。
嗤える。

復興五輪という別名があると聞く。どこが復興したのか。出来上がったのは東京の道路整備だけ。
選手村のマンションは払い下げになると言う。
埋立地の怖さは今度の台風災害でわかったはずだ。

地球温暖化は確実に進んでいる。スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥンベリさん、16歳の少女を支持する。

温暖化によって台風はますます熾烈になってくる。
「アンダーコントロール」の敷地内、その周辺の海。
台風の大雨で遮水壁の中が逸水寸前になった。翌日水位は下がっていた。あの雨水は何処にいたのだろう。誰が考えてもわかることだ。

温暖化対策で人間が出来ることはCO2の削減を図ること。その国際会議に中国、アメリカ、日本は加わろうとしない。

プラスチックごみを無くせと政府は言う。コンビニでも来年7月からはレジ袋3円となるとか。その「罰金」はどこにいくのだろう・・・。

政府の各種会議。テーブルの上にはペットボトルが並べられている。
嗤える。

クーベルタン男爵が「参加することに意義がある」としたオリンピックの位置づけ、ある意味哲学。それはもう五輪の何処にも無い。
あるのは「商業主義」と「国威発揚」。

もろもろ考える。

オリンピックはその役割をもう終えた。撤収作業に入ろう。

オリンピックが夢、表彰台に立ちたい。異口同音にアスリートと言われるスポーツは言う。そしてそれを目指す。
敢えて言う。「オリンピックという名の名誉の対象、それは子供の頃から植え付けられた一種のマインドコントロールだ」と。

各種の世界選手権がその最終目標だっていいじゃないか。

書き連ねるにつけ、無為なる日々と行為と出費が連綿と続いて行くようにさえ思えて来るのだが。

2019年10月29日火曜日

台風災害と高齢者

地球温暖化に起因する台風、自然災害。それは年々“熾烈”になってくる。
例えば、阿武隈川の氾濫もその規模は未曾有の様であった。
中小河川でも。
日が経つにつれて、被害の深刻さがわかってくる。

住み慣れた家、慣れ親しんだ家財があっという間に瓦礫、ゴミと化す。

ハザードマップで見る河川。それは人体の解剖図、血管の如く見えた。
中小河川が氾濫しても、それは1級河川の氾濫にも及ぶ。
中小河川は、ハザードマップに見ると国土の「毛細血管」と置き換えて考えてもいいのでは。
血管が詰まる、破れる。
脳の中の血管が詰まる。小さな血管にしてもそれが詰まれば「脳梗塞」だ。梗塞は流れても後遺症が残る。歩くこともままならない。河川の氾濫もその“後遺症”はなおらない、なおせない。

今回の災害で知人も多く被災した。追い打ちをかけてくるような豪雨に為すすべも無かった。

天災はますますその熾烈さを増すだろう。

「3・11」を体験したばかりだ。災害は建物だけでなく人間の生業(なりわい)そのものをも棄損する。
千葉から福島、宮城、長野、九州・・・。河川の決壊、氾濫だけではない。いわゆる内水氾濫も必ず起きる。

本宮、郡山、須賀川。浜通りのあちこち。
住み慣れた家が瓦礫と化し、ゴミとなって積み上げられていく。
その無念さを思う。

郡山では廃棄物処理場も被災した。
処理能力が足りない。
解決するまで数年はかかるとも言われる。

ゴミと化した自分の家の中に在った家財の多く。それを毎日眺めることになる。
辛さがわかる気がする。

今度の台風災害でこの国は多くの課題を背負った。

想定外はすべて想定内のなった。
河川の改修。膨大な国費の投入を計らねばならない。
人の命を、生活を守るためにも。

テレビを見ていた。いわき市に避難指示が出た。34万市民に避難しろという命令。
市民全員が入れる避難所なんか無い。

避難所生活は過酷だ。
避難所の「整備」。3・11の教訓として残されているはずだ。

避難所を巡る有機的なあり方。社会全体が取り組まなければならない。
空気を入れれば簡単に出来上るベッドのCMを見た。
自治体は食糧含め、トイレの問題含め、小さなテント状のような居住空間の確保まで。国も自治体もそれらの対処を進める「義務」がまさに発生しているのだ。

東京ではホームレスの受け入れを断った区がある。台風の中、そのホームレスを外に出す。段ボールを被ってその避難所の壁にもたれかかったままのホームレス。彼らにも基本的人権はあるはずだ。

そんな中、マスコミに取材を公開した渋谷の「再開発」の光景。
高層ビル群の街に変わった“故郷”渋谷。レポーターはその中から「夢」を語る。
地下には巨大な貯水槽がある。渋谷川、宇田川、東西の坂。
そこに濁流が派生しても水を「飲みこむ」機能が出来ている。
IT企業が入り豪華なたたずまいの高層ビル。

災害に起因する停電は必ず起きる。停電になった高層ビル。自家発電は当然完備されているだろうが。

空撮の渋谷のビル群を見て家内は言った。
「まるで墓場みたい」と。

テレビのワイドショーの司会者は言う。濁流を取材中の記者に。
「だれそれさん、十分気を付けてくださいね、取材に当たってくださいね」
違うだろう。気遣いを呼びかけるのは、その安否を気にする対象は災害の渦中にいる市民のはずだ。

水害での死者、その70%は高齢者だと言う。
避難所に行くことをあきらめた高齢者。
2階のベットの上から足の悪い夫を引き上げようとして力尽きた高齢の妻。

高齢化社会は急速に進む。
災害弱者としての高齢者。自らの身を思いながら、その在り方を考える。
結論は出ない。

災害時、善意のボランティアが片づけを手伝ってくれている。
ボランティアがいなければ高齢者の住宅では何もてにつかない。
ボランティアは「自己完結」とされている。
ボランティアに対する制度の在り方も再検討すべきだ。

自衛隊にはいつも助けられている。人を救うことに、助け上げることに空挺団は生甲斐を感じているはず。
誰しも無条件に「ありがとうございます」と何だながらに礼の言葉を言う。
その被災者の言葉に涙する自衛官もいる。

その「長」である河野太郎防衛大臣は、災害の傷跡も癒えぬ時に、自分の政治資金パーティーで「私は雨男と言われています」とシャレにもならない冗談を言って場の空気を盛り上げようとした。
この十日間、災害に苦しんでいる中で、政治の場では不祥事があり、大臣はバカなことを言っている。

昭和の日本はこんな国では無かったはずだが・・・。
何を書いても言い尽くせない、この国の姿。

2019年10月19日土曜日

自然は人類を見限ったのかも。

台風19号が甚大な被害をもたらしてはや一週間。
被害は続いており、被災された方々の「悲嘆」「苦労」如何ばかりかと。

我「当事者」にあらねども、「思い、考える」ことしか出来ぬのが歯がゆい。

台風19号の被害。我が家は無事だった。しかし、近くの中小河川の氾濫は多くの被害を目の当たりにしてくれている。
知人の多くも被災したと聞いた。

災害がある度に、我々が手にしてきた科学文明の進歩が、無残に打ち負かされていく。
台風の後には地震が来るともいう。現に、その「大きさ」は巨大ではないが、不吉な災害も予想される。

関東大震災、昭和初期の室戸台風。自然災害の度に引き合いに出される寺田寅彦の言葉。
「文明が進めば進むほど、天然の暴威による災害はその激烈さの度合いを増す」
まさに然りだ。

「国中に電線やパイプ、交通網がはりめぐらされた有様は、人間の神経や血管と同様である。その一カ所が故障すれば、影響は全体に波及する」とも。
ハザードマップを見ると“血管”の様子が人間の血管の張り巡らされている様子に重なる。

永平寺にある「水五訓」の中の記述。。
“自ら活動して他を動かしむるは水なり”
“障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり”
”常に己の進路を求めて止まざるは水なり“

本来は水に喩えた人生訓なのだが・・・。

東日本大震災時、高台にうずもれていた石碑がいくつも見つかっている。
先人のが身を以って記した後世への遺訓だ。

「これより下に家を建てるべからず」。

東日本大震災の津波は、それらの碑の前まで来ていた。

もって瞑すべしだ。

治山治水。国策の要諦だ。
徳川家康も武田信玄もいかにして川の氾濫を食い止めるかに腐心した。
領民を総動員する形で、人力を主に、堤防をつくり、暴れ川の川幅を広げ、蛇行を修繕することに腐心したと言う。

阿武隈川の増水、反乱。その支流のバックウオーター現象。
本宮と言う町は完膚なきまでにやられた。

1級河川を管理するのは国土交通省。
国交省の「人為ミス」で、氾濫被害にあった事象が目立つ。
ダムの放流に際しても然りだ。

人間には「安全バイアス」という脳の作用がある。

そのバイアスが働き過ぎたのかも。

安倍晋三の首相就任にあたってのキャッチコピー。「美しい国」。
法律としての国土強靭化。
眉唾であったような気がしてならない。

政治家の発言や行動には、その人の見識、人間性を疑わせるようなものが多々あった。
それを「無責任バイアス」とでも名付けるか。

今も、被災地の復旧を妨げる無情の雨。
吾、「当事者」にあらねども辛さとくやしさぞ増す。

どうしてこの人が率いる内閣って災害に対してこんなに動きが鈍いのだろうか。

そして、間違いなく言えることは、この種の災害はまだまだ発生する。

自然は人間を見くびっている。

せめて東京の都心にある「地下神殿」を、あるいはそれに類する類の対策を、避難所とされたところの居住環境の整備。

溢れだす水、水が無いと苦境を訴える人々。
泥を流す水も無いということ。
御託を並べず、泥に浸かりながら作業に当たる消防団などの民間人、そしてボランティアにただただ敬意を表する。

偽善めいた“視察”、その翌日「調査の結果、激甚災害にしてします」。

美し国の「正体」を見た。

2019年10月12日土曜日

埋没した「福島原発」

きのう、あるところで台風19号の脅威の話をしてきた。
国連の気候行動サミットで地球温暖化に激しく抗議するスエーデンの16歳の少女、グレタ・トゥンベリさんのスピーチの話を交えて。

台風19号の猛威に関して、福島県民は福島原発の廃炉作業に大きな関心があること、1Fがどんな影響、被害を受けるかということ。
解体中の排気塔がどうなるかということ。
建屋の中に溜った水が海中に漏れ出さないかということ。

今日は朝からテレビの台風情報に観ている。
そこから1Fに関する危惧を話題にしたところはない。おそらく。
新聞も県紙や中央紙の県版でも扱いは小さい。

もちろん、自分たちの周りの、現象や被害に関心があるのは当然だが、1Fga気になる。

郡山も警報や非難情報が度々発令されている。
天気図を見ると1F直撃だ。
そのことが非常に気になる。

テレビも新聞も、大方は「東京発」だ。全国の様子も気になるが・・。

高齢者、障害者は避難と言われるが
避難所に行きようが無い身、夫婦と犬で家にこもることにした。
原発よりもわが身を心配しろといわれるかもしれないが、為す術は無い。

竜巻もあった。飛ばされている家もある。水没した民家も、氾濫した河川もある。停電も発生している・・・。

1Fになにがあろうと即座の被害はないのだろうが。
やはり気になる。

多くの被害が出ている中で1Fのことは埋没しているような気がして。

とりあえず、今、思っていること。

阿武隈川の近くはレベル4の警報がだされた。不安なること計り知れず。

2019年10月3日木曜日

「香港のデモ」から思い浮かんだこと

香港で起きている若者中心のデモ。ついに警官は拳銃を抜いた。発砲した。
撃たれた学生、高校生は一命を取りとめたが。
高校生の通う学校では生徒たちが抗議行動に入っている。

大人たちも、昼休みにはデモ行進を行ている。
今夜も抗議デモの参加者は増え、香港はさまざまな機能が「マヒ」状態になるだろう。

香港の学生たちを主体にしたデモ、警察の発砲。妄想めいたことが浮かんできた。“未完のストーリー”めいたもの。

“一つの家庭がある。父親の職業は警察官。機動隊に配属されている。
その日も高校生の子供は、朝学校に行った。
出がけに父親と母親が声を掛けた。気を付けてね。と。
子どもはいつものように行政府に抗議するデモに参加した。
少なくとも彼は「自由」について学び、考えて来た。
香港を中国から完全独立させるべきだと考えていた。

デモの現場は荒れていた。警官隊は催涙ガスを撃ち、デモ隊と対峙し、ごぼう抜きのように学生たちを引っこ抜いて警棒で殴打し続けていた。
一人の若者が警察の側に引っ張り出された。
その日、彼の父親は機動隊員として、鎮圧に当たっていた。
ひきずり出された若者。殴打している途中に顔の黒いマスクが剥がれた。
それは自分の息子だった。
その警察官はそれ以上警棒をふるえるのだろうか・・・。“

頭の中は「3・11」後、テレビの番組で人気を呼んだ、サンデル教授の白熱教室を思い出す。
これからの「正義」の話をしよう。
“一人を殺せば5人が助かるという場面があったとしたら、あなたはその一人を殺すべきか”
道徳的、哲学的な問題提起のいくつか。サンデル教授は答えはださない。
教室にいる聴衆にさまざま議論させる。
もし香港の事象をテーマにしたら教室にはどんな議論が展開されただろうか。

さまざま「大衆運動」の歴史を想起する。

天安門事件の際、軍の戦闘車両の前にいわば素手でその行く手を遮ろうとした若者がいたこと。彼は素手なるが故に戦車の運転手はブレーキを踏んだ。
何回も。

日本の歴史。安保闘争は権力に敗れた。
東大安田講堂事件も結局、警察に鎮圧された。
大学国家管理法が生まれた。

4年前の官邸前での市民行動・・・。

原発反対の市民行動・・・。

警察とは常に権力者を守るためにあるのだろうか。
市民の側に立てないものなのだろうか。
時の権力者は守るべきという至上命題があるのだろうか。

香港を考え、22歳の運動の指導者周庭さんのことを考える。
少なくとも最近メディアの画像には登場しないが。
地球温暖化防止を訴えたスエーデンのグレタ・トウーベリンという16歳の少女の事を考える。
「人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。
未来の世代の眼はあなた方に向けられています。もしあなた方が私たちを裏切るのなら私は言います。あなた方を絶対許さない」と。

周庭さんもトウーベリンさんも“これからの「正義」の話をしている”ように思えてならない。

2019年9月30日月曜日

テレビは消費税増税の「ハウツー」を言うだけであり

明日から消費税増税と言う悪魔の政策が実施される。
結果、消費はことごとく抑制され、日本経済をより低成長に導いていく。

軽減税率がどうのこうの、イートインなら10%だ。持ち帰れば8%だ。
酒は10%だ。飲料は8%だ。

レジを交換するのに何十万もかかる。レジ問題で“廃業した個人商店もある。
新しいのレジを店員は使いこなせるか。
もろもろ例を挙げていればまさにテレビと同じ「ハウツー」だ。

今の日本の経済システ・社会政策に消費税増税は似合わない。

昨日か。テレビで芸能人相手に「よくわかる消費税」みたいな番組をやっていた。
「消費税増税は何に使われますか」。司会者の振りに全員が「社会保障」と答えていた。

上手い“洗脳”だ。

消費税増税で5,4兆円の税収が見込まれている。うまいことやって“税逃れ”をしなければ別だが。
とにかく、その5,4兆円が「社会保障」に使われるのか。とんでもない。
大方20%くらいだろう。幼稚園の無償化は社会保障か。足りない保育士、低賃金の保育士。
一例を挙げればだが・・・。
数々の矛盾があり、しかも「国の借金返済」に繰り入れられる部分もあるという。

そしてなによりも疑問だらけで、作業が大変な「ポイント還元」という”甘言”。
ポイント還元は永久ではないのですよ。来年6月までですよ。

冗談交じりの話しだ。
中年の叔父さんがスマホをかざして買い物をした。機械が「ペイペイ」と言った。叔父さんは言った。「おれはもうペイペイの社員じゃなくなった。課長に昇格したんだぞ。失礼な!」

駆け込み需要が日本人は大好きだ。いわゆる“爆買い”に走る。
ビールを10ケース、ウイスキーも5ケース、焼酎も。目の前に好きな嗜好品が積まれていれば、うっかり“爆飲み”に走る。なんか得したように錯覚し。
酒量が増え、病気になる。医療費が生活に響いてくる・・・。

馬鹿話のようだけど決して無い話では無い。

そして明日からは節約モードに入る。買い物を、消費を控える。
なるべく貯蓄に回そうとする。
なぜならば、「お蔵入り」としてしまった「年金プラス2千万」という老後の生活のための数字が擦りこまれているから。

2千万確保のためには毎月5万5千円は貯蓄に回さねばならない。かくて消費は低迷を極める。国の成長率は鈍化する。

新聞には「社説」がある。その新聞社としての主張だ。軽減税率を適用して貰ったおかげで、こと消費税に関しては、はっきりとした論陣は見受けられない。
テレビには「社説」が無い。その局の主張はない。
で、冒頭の如くにハウツー番組ばかりが跋扈する。

明日から日本経済の「終わりの始まり」が始まる。
アベノミクスといいなにといい消費増税に至るまで、ことごとく失敗してきた安倍政権の経済音痴。

消費税増税反対と何故言わぬか。テレビは。CM代金や下請け代金も上がってくるのだろう。白痴化番組が増えていくのか。

お上が決めたことにはよくわからないけど従う。立派な国民性だ。

2019年9月20日金曜日

「凡庸な悪」~東電裁判に思う事~


東電福島第一発電所の爆発事故。あれから8年以上になる。
事故の後処理は次々に新たな問題を引き起こしてくる。

原発は「国策」だ。それがあの大事故を起こし、多くの災害関連死を生じ、
今尚安堵をえていない県民もいる。

東電の責任問題、東電の当時の経営陣に責任が求められるのは当然だ。
自然災害が原因の一つであることは間違いない。
しかし、「15,7m」の津波が予想され、その対策が指摘されていたにも関わらず、それを無視するに至っていた会社の幹部。

なぜ秋霜烈日を旨とする検察は不起訴という結論を出したのか。それへの疑義は消えていない。
検察審査会がようやく起訴に持ち込み、出された判決は当時の経営者3人とも無罪。

その結果を知った時、アンナ・ハーレントの「凡庸な悪」という言葉を改めて思いだし、その凡庸な悪について考えた。

言うまでもないが、ハーレントの「凡庸な悪」とは、ナチス政権下にあって、ヒトラーの側近だったアイヒマンは毎日大量のユダヤ人をアウシュビッツに送り込み続けていた。
戦後、裁判にかけられたアイヒマン。その裁判を追い続けたハーレントはアイヒマンが無罪を主張したことに驚愕した。
「ヒトラーから命令されたことを実行したまで。私は思考能力を失っていた」。
それを称してハーレントは「凡庸な悪」と呼び、名付けた。

原発事故の被告3人はまさに「アイヒマン的」言い訳を繰り返した。
東京地裁の永淵裁判長は「3人が巨大津波の可能性に関する報告を聞いていたとしても対策を講じてもあの事件がおきるまでに工事が完了していたとは思えない。事故を回避するためには原発の運転を止めるしかなかった」と述べた。

原発を止めていてもいいじゃないか。現に、あの過酷な事故が起きた後も数日の停電騒ぎで、今は電力問題に“危機”は起きていない。

被告と裁判長に共通している思想。
「国策としての原子力至上主義」。国の施策に盲目的に従っていた。従わざるを得なかった。だから「無罪」だという発想。

人間には「安全性バイアス」という心理があるという。願望を込めて事故は起きないとする思考。
東電の3人にそのバイアスが働いていたことも事実だ。

いま、日本を覆っている想い空気は「責任逃れ」だ。その一環としてこの判決の事を思った。
説明責任があると言いながら説明はしないでもまかり通る。
道義的責任はあるといいながら、責任はとらない。

責任とは何なのだろう。

過去の日本人は「責任」を誰何されることを「恥」と捉えていた。
戦争がその倫理観を消してしまった。

控訴は出来るのか?民事での裁判は出来ないのか。

福島の地にいて、多少東電と関わりあいを持った経験がある。
その時思ったことの一つ。
「原子力を扱うあの会社は“伏魔殿”だ」ということ。

2019年9月16日月曜日

「破壊」と「怠慢」と

11日安倍改造内閣が誕生した。
ポンコツ内閣と言おうか、滞貨一掃人事と言おうか。
こんな内閣を作って、安穏としているこの国の政治。
それが参院選での48%という数字に表れている。

国会が開かれれば、ボロが出てくるは必定。
野次りまくり、早口でまくしたて、醜い宰相の姿を露呈させるのだろう。

安倍と言う人はつくづく「政治音痴」だと思う。政治家の資質はゼロの人だと思う。しかし、それを許して来たのは無知な国民の我々。

政治の要諦は国民生活の安心・安全を図ることにある。
しかし、2019年9月11日、安倍はまたも「棄民」の道を選んだ。
台風で甚大な被害を受け、喘ぎ苦しむ千葉県の被災者を“見捨てた」のだ。

笑える光景があった。
9月1日、防災の日。官邸で「防災会議」が開かれ、格好つけのように防災服に身を包んだ閣僚が居並び、官僚が書いた指示事項の紙を早口で読み上げていた。

全てが見せかけだけの世界だった。
それから10日後、猛烈な台風が千葉や東京の島嶼部を襲い、甚大な被害が出ていた。

9月1日の“予行演習”に習えば、即座に政府は災害対策本部を設置し、対応に当たるべきだった。
しかし、災害対応は「無視」された。
災害対策本部が出来たのは組閣の後。大臣は“新人”、“ど素人”。

すでに熱中症で死者が出ている。停電は広がる。病人は移送せざるを得ない・・・等々。被害は拡大している。壊れた家屋には人は雨だれとともに生活している。
電話は通じない。テレビも映らない。そんな昨日までの光景。

「電気」が無ければ全ての事が成り立たない。人命も危機に瀕す。

そう、電気中心の社会システムが出来上がってしまっているのだ。
しかし、それは完成形ではない。
例え、相手が自然災害ではあろうとも、自分たちが作り上げた、恩恵を受けていたシステムに破たんが生じたとき、その難を回避する術を持ち合わせていないのが問題なのだ。

我々はそのことを「3・11」で経験している。しかし、その経験が次の災害に生かされているのか。

政府はすみやかに激甚災害法を発令し、適用すべきだ。
しかし、今のこの国の統治機構の中にはその発想が無い。

災害に「A・I」は機能したか。電気が無いところでは科学文明は機能しないのだ。

大して意味の無い組閣を優先させたこと。
万死に値する愚政だ。

小渕内閣時、改造の直前に東海村の原子力事故が起きた。官房長官だった野中広務は改造延期を進言し、輔弼の勤めを果たした。
安倍に進言する取り巻きはいない。

3・11時寺田寅彦の「災害は忘れたころにやってくる」という教訓が各所で語られた。
科学文明が限りなく進歩を遂げたいま、気象予報はかなり正確に災害を予測している。
「文明が進めば進むほど天然の暴威による災害はその激烈さを増す」とも指摘している。

南米アマゾンの大火は地球の生態系を壊し、大量の二酸化炭素が空中を浮揚している。

今日の南房総地方はまた無情の雨だ。雨の合間を縫ってブルーシートを張る手伝いをするボランティア。
立ちすくんでいる高齢の住民。

「政治よ、お前は何処にいるのだ、お前は何処にあるのだ」。

2019年9月5日木曜日

消費税増税と言う“悪魔の選択”

消費税が10月から2%増税される。断固反対です。今更ながらですが。
消費税の2%増税。増収は約5兆円。

3%・5%・8%・・・。消費税は目的税ではないが「社会保障費」に必要だからと思ってきた。
ところがどっこい。社会保障に振り分けられるのは18%程度だという。
目くらましとさえいえる軽減税率の適用で1兆円が目減りする。
景気の落ち込みを防ぐ対策として導入されるポイント制やプレミアム商品券の発行費用、乗用車や住宅購入時の減税拡大などのために使われる費用が2兆円。、増税に伴う景気落ち込みを補うための“負担軽減策”で、増収分はすべて打ち消される。実質的な増税効果はまったくない、馬鹿げた増税なのだ。

新聞はこの消費税増税の事をあまり書かない。批判しない。
新聞は軽減税の対象にしてもらっているからだ。

今のうちに車を買っておこう、家を買っておこう。いわゆる駆け込み需要をテレビは煽る。テレビで言うのはお得なポイントの話し。
店内で食事をすれば10%、持ち帰れば8%。その話の繰り返し。
あげくはポイント還元のお話ばかり。

いまこの国は「ポイント」に操られる国になった。そして、消費増税対策で中小企業は本来の業務に影響が出るくらいてんやわんや。
なんと生産性の悪い事か。

駆け込み需要含めて大企業の内部留保は大幅に膨らんでいる。
しかし、法人税増税なんて気配はない。

あるとこから取らずに無いとこから絞り出すように取る。そんな税。

かってあった「便乗値上げ」的なことをくにがやっている。値上げじゃない個人情報の吸い上げ。
マイナンバーカードを作れという。そうしたらいくらかの“甘言ポイント”を差し上げますとくる。
税金を吸い上げ、個人情報も吸い上げるというお上の汚い手口。

便乗値上げするのは郵便局。郵便料金が葉書も封書も1円ずつ上がる。
小泉改革がもたらした郵政民営化。天下の悪政。民営化していなければ便乗値上げは出来ないはずだが。

郵便局と言うお国の機関だからと思っていた人はお国が騙すわけがないと損しかしないかんぽの投資話に飛びつく。
「貯金してても利子は付かないですよ。眠らせているお金は生きてるようにつかいましょうよ。運用しましょうよ」。

騙されて投資が目減りしても自己責任。

手を変え品を変え「負担」を強いるお国。
手を変え品を変え「増税対策」の翻弄される、たとえば牛丼屋。
混乱は半端無いのでござる。

儲かるのはレジスター会社か。東北には対応が出来ずに店をたたんだ人のいる。

例を挙げれば枚挙に暇がない。

とりあえず消費税だけについて言う。
この国の政治の在り方はおかしいよ。
民の安寧が全く確保されないんだから。

先進国だというなら増収分はやはり「社会福祉」でしょ。一部は教育の無償化や保育士の確保に向けられるというけれど。

社会の混乱を来す消費税増税には絶対反対です。
消費税反対のデモ、大衆行動は香港のようにはならないし。

消費税は内閣にとっては鬼門だったはず。安倍の狡さは2度、3度とずらして、馴らさせてのえいや~お~。

消費税を巡る詐欺や税逃れや、またまた悪童どもが出てくるのも必定。

2019年8月27日火曜日

おバカな政治家たちの「外交」

地球儀で俯瞰する外交。そんなことを誰が名付けたのか。
「外交の安倍」とほめそやした一部マスコミ。
膨大な国費を使って外遊、また外遊。
それで何か国に資する成果があったか。

何も無い。

今、韓国と「子どもの喧嘩」に明け暮れて居る。閣僚含めて。

もともとは文在寅政権の事実誤認から始まって徴用工問題。すでに韓国は盧泰愚政権時、「国内問題、韓国政府の責任」と認めていた。
韓国最高裁がまた異な判決を下すと、なぜか、その矛先を日本に向けた。

それがどういう展開を見せるか。外交を知悉している政治家ならわかるはずだ。
「請求権交渉」で解決している話を日本攻撃に使う。文在寅政権の真意がわからない。わからないものは放っておけばいい物を安倍政権は過敏に反応した。

外交とはたとえば「オセロゲーム」のようなもの。こうすればこうなる。相手の出方、打ち方を数手先まで読んでのコマのひっくり返しごっこ。
熟考せずに即反応すれば勝ち目なし。

売られた喧嘩は買うという任侠道か。

「ホワイト国」(誰が名付けたか不明の呼称)から韓国を外す。韓国はすかさずGSOMIAを破棄。挙句、北朝鮮と統一して日本をやっつけるかの威嚇発言。

北はミサイルを撃ち続ける。
数年前大騒ぎした「Jアラーム」は鳴らない。
頼みのトランプは黙して語らず。仲裁する気も全くなし。
そうだよね、一銭のとうにもならないのだから。
かねにあかせてグリーンランドを買うとか。
中国へのけん制だ。

皆、我欲に走っている。蜜月を誇った日米韓が。

どうも日本では今や外交は外交のプロである外務省では無く、通産省がカギを握っているらしい。

外交音痴の官僚に乗せられる日本も、韓国も。

あなたは「ライン」を使ってますか。それは韓国が開発したものです。
スマホでギャラクシーを使ってますか。それも韓国製です。

韓国では政権の「側近」をめぐる疑惑事件が表ざたになった。
反日に翻弄され、疑惑に怒り。韓国国民もさぞや戸惑っていることだろう。

日韓のいさかいごとにトランプは見て見ぬ振り。
北がミサイルを撃てもアメリカには届かないと洞ヶ峠。
嬉々として付いてくる安倍にはやりたい放題。
中国が買わなくなったトウモロコシを日本に大量に買わせる。その他の貿易問題もアメリカさまの言う通り、為すがまま。
「ウイン、ウインの関係」とうつろな目で強がる安倍。

♪こりゃまたどういうこった、世の中間違っているぜ。まことに遺憾に存知ます~~♪

まともな政治家がいた昭和の時代を懐かしむわけではないが。

2019年8月23日金曜日

第3次交通戦争の時代

戦後しばらくして、日本が高度経済成長期を謳歌していた頃、第一次「交通戦争」という言葉が飛び交った。
日本は車社会と化し、交通事故が激増した。その犠牲者が日清戦争時の日本側の死者の数を超えたことから「交通戦争」と世相が名付けられた。
おそらくマスコミの作語だったような気もする。

交通遺児のための「あしなが育英会」が作られ、街頭募金も行われていた。

1980年代、交通事故の死者数が年間に1万人を超えた。事故は多発し、第二次交通戦争といわれた。

車のメーカーはこぞって新しい車を開発し、これでもかこれでもかと車を売りつけ、車の数は増え、それに比例する様に事故も増えて行った。車の増加に道路整備が追いつかない。
通学路のような狭い道を抜け道として利用する人が多発。車両進入禁止や通学路に侵入する車にテレビカメラが取材を試み、「あなたは違反してます」などと言おうものなら運転手から殴られるようなケースさえあった。

速さが求められていた時代背景をそこに感じた。


数年前の免許証更新時、教習所で耳を疑うような“講義”を聞かされた。
「ライトは常にハイビーム」で走れという道交法の改正があったとか。
愕然とした。

昔の交通マナーは「他人に迷惑をかけない」という趣旨があった。
信号で停車した時にはライトはいわゆるスモールにし、前の車が眩しくないように、対向車が眩しくないようにしてきた。身に沁み込んだマナーだ。
スモールとは車幅燈だ。

それが「違う」という。上向きにしていれば防げた交通事故が多いからだと「お上」は言う。果たしてそうだろうか。

車は飛躍的に進化し、ライトはLED使用。対向車のライトが眩しく、「目くらまし」状態になることもしばしば。停車中も後ろの車のライトが眩しい。
眩しく事故を起こしたという話も聞く。

眩しければ目をつむる。人間の当然の「生体反応」だ。
車をより「狂暴化」させている。ライトの仕様も暴力的、威圧的だ。
識者は言う。「眩しい時は左側に目をやりなさい」。愚答だ。左に注意を向けると右を見ることがおろそかになり危険でもある。


今は、もしかしたら「第三次交通戦争の時代」かもしれない。
いわゆる「あおり運転」、「威嚇運転」が日常茶飯事の如く為されている。

蔓延する「暴力的運転」。威圧し他者の恐怖心を呼び起こす運転。
「ハンドルを握れば人が変わる」と言われている。
高級外車に乗ると優越感に浸る。そこのけそこのけ俺様が通る。

一時の流行病で終わることを祈る。

いま、この国は「暴力的空気」に支配されている。
政治の「暴力」とあおり運転は関係ない。しかし空気は伝播する。
京アニ事件もそうだ。ガソリン携行缶と言う言葉は愛知トリエンナーレ事件にも使われた。
京アニ事件の被害者や家族の心情を考えることもなく、それを「表現の自由」を非難し攻撃することに使う。

きのう煽られた。通学路で軽自動車に。駅前では公共交通機関のバスさえもあおりをやっている。

「あおりに気を付けてね」が日常生活で使われる悲しい現実。
どこか、いま問題の日韓関係にも似ているような・・・。

2019年8月15日木曜日

あの日も今年も暑い日だった

終戦の玉音放送を聴いたのは4歳。
姫路大空襲で家を焼かれ、玉蜀黍畑で一夜を過ごし、伝手をたどっての明石か飾磨の農家の離れに暮らしていた頃だった。

ラジオから流れてくる声は聞き取りにくく、何を言っているのかよくわからない。父親が教えてくれた。
「戦争が終わったよ」と。

子ども心に感じた「解放感」。その離れから見える海はこれ以上なく青く、その手前にはヒマワリが無数に咲いていた。そして暑かった。

近親者を戦争で亡くすことも無く、過ごしていた4歳児。
いつも覚えていたのは「飢え」。もしかしたら戦争の記憶は「飢え」と共にあったような。

翌年は東京にいた。バラックの“復興住宅”。そこではなぜか秋刀魚を焼く匂いがあった。しばらくして初台に住んだ。
家はあるけれど食糧が無い。
来る日も来る日も「すいとん」。お湯に醤油をいれ、その中にメリケン粉をこねたものをちぎっていれるだけ。
姫路の知り合いから素麺が木箱で大量に送られて来た。
来る日も来る日も素麺。三食とも。
以来素麺が喉を通らなくなった。食えなくなった。

あばら骨が出ているパンツ一枚の写真が残っている。

食糧の買い出しに行く母親に付いて行った。
上野の地下道にはいわゆる戦災孤児が溢れていた。
彼らの餓えた目つきが忘れられない。

戦災孤児は東京大空襲で親を亡くした子供だけでは無い。
学童疎開に出され、終戦後東京に戻ってきた子供もいた。帰ってきたら家も無く親もいなかった子ら。

戦死の原因の半分は餓死だとも聞く。


小学校の給食。コッペパンと脱脂粉乳。同じクラスに裕福な家の子がいた。女の子。ジャムを持って来ていた。これ食べないと言われたがなぜか頑なに拒んだ。

「お米の通帳」、米穀通帳が配布された。質草になるほど貴重な物。いわば住民票かわり。

中学の時は「ネコ飯」が弁当だった。カツオ節をご飯の上に載せたもの、時折海苔の佃煮が乗せてある。

大袈裟な言い方だけど「飢え」との戦争だった。遠足の弁当はおにぎり二つ。

小学校5年の時、習字の宿題があった。「平和日本」と書いた。
担任の梅田育子先生が、その字の前で話をした。

「まだこの国は平和じゃないのよ。だからそうあってほしいと平和という言葉が使われる。本当の平和な国になったら平和と言う言葉も無くなる。そういう国にしようよね」。この話だけは今も覚えている。

高校は上板橋だった。毎朝山の手線で高田馬場を通るとき、ドアに顔を付けるようにしてその光景を見ていた。
戸山の公共職業安定所。その日の職にありつけるかどうかの長い列。
貧困・非正規雇用があった戦後・・・。

きょうの戦没者追悼式。天皇は深い反省という言葉を発した。父親のならって。
安倍はそれを言わなかった。

戦没者の遺族はだんだん減っていく。今年の最高齢は97歳。

戦争を語り継ぐ。数年後には語る人はいなくなる。
当時者の時代はなくなる。
あった事実は書物でも学べるが生の声では聴けなくなる。

「平和」と名付けられた憲法は戦争を知らない政治家によって書き換えを画策されている。
選挙の争点に憲法を。そんな世論は少ない。しかし為政者は限りなくそのことに固執する。

大学入試の勉強の為新宿図書館に毎日通っていた。毎日、憲法を読んでいた。前文を読むだけで感激があった。

その時だけは僕の心は「平和」だった。毎日のように食べていた図書館前のラーメン屋。一杯35円。満足だった。「平和の記憶」かもしれない。

2019年8月11日日曜日

広島・長崎、そして福島

唯一の被爆国である我が国。
八月六日のヒロシマ。今年はいつもの年よりも酷暑だったろう。
広島市長は核禁条約への署名を求める。国を代表した安倍は真正面から答えない。
相変わらずの光景。

広島の原爆資料館が改装されたという。
展示物を大幅に変えた。
被爆地周辺から掘り起こされた被曝死した人たちの遺品が展示されている。
ボロボロになった瞬間に来ていた服の切れ端。唯一残った子供のつけていたズボンのベルト。ひねまがったバックル。

今年11月にはローマ法王が来日する。
「焼き場に立つ少年」という写真がある。死んだ妹か弟の亡骸をおんぶ紐で背負い、唇をかみしめながら、焼き場が空く順番を待っている少年。
その写真をローマ法王はSNS配信し、信者に拡散を呼びかけた。

長崎―。爆心地の大浦天主堂にあった十字架がアメリカから返還された。
長崎の悲劇のシンボルとして。
長崎市長も核禁条約への批准書署名を訴えた。
安倍はここでも言及を避けた。

発効50年を迎える核不拡散条約(NPT)に触れ、「核兵器をなくすことを約束し、その義務を負ったこの条約の意味を、すべての核保有国はもう一度思い出すべき。それは「唯一の戦争被爆国の責任」と訴えた。

この日南米のボリビアが批准書に署名した。「ヒロシマ」に合わせて。
批准書採択にはまだ20か国以上の批准が足りない。

アメリカはもちろんNPTに参加しようとしない。
日本はアメリカの核の傘の下にある。アメリカの意向に従うしかないというのが本音。
被爆者たちの声よりもアメリカの意向に追随する政治。

被爆経験者はどんどん老いて行く。
直に体験を語る人がいなくなっても、若い人たちの間にはそれを「語り継ごう」とする気運が芽生えている。

「放射能が移る」というという“デマ”で彼らは忌避され阻害され排除されて来た。

長崎市長は言っったー。
 原爆は「人の手」によってつくられ、「人の上」に落とされました。だからこそ「人の意志」によって、無くすことができます。そして、その意志が生まれる場所は、間違いなく、私たち一人ひとりの心の中です。と。
そして
 「長崎は、核の被害を体験したまちとして、原発事故から8年が経過した今も放射能汚染の影響で苦しんでいる福島の皆さんを変わらず応援していきます
。」と。

僕の周りでも原発事故後、放射能が移るという“デマ”に洗脳され、いわれなき差別を体験した人が数多くいた。
僕自身も言われた。
「あんた放射能が恐くて東京に逃げていたんだって」と。誰が言っているのかと誰何すると、「皆言っている」と。
その人達との接触を絶った。あのころ毎日避難所に通っていたとは言わなかった。無意味だから。

いわれなきデマに悩まされたという一点では広島・長崎・福島は通底する。しかし、福島県人は原爆の被災地のような阿修羅の状態にはいなかった。

ここ数日、元ちとせが歌う「死んだ女の子」という曲を繰り返し聴いている。
彼女が最初にその歌をプロデューサーから渡された時、歌詞を自分の物と出来ず、歌は封印されていた。
彼女が原爆資料館に立ち寄った時、そこをみて考えた時、咄嗟に言ったという。
「あの曲歌います」と。

♪あの時も七つ、今でも七つ。
死んだ子は決して大きくはならないの
平和な世界にどうかしてちょうだい。
炎が子どもを焼かないように♪

・・・

そして間もなく15日。日本の一番暑くて長い日。

2019年8月3日土曜日

真夏の夜の夢

この数週間、ほとんど“夢の中”にいた。
原因不明の頭痛、それもかなり激しい片頭痛。痛み止めを飲んでは結果寝てばかり。
MRIなど医学的検査ではどこにも異常なし。気象病と診断されたわけでも無く。そして、白内障がいささか進行の気配。ま、年を取るというのはこういうことかと観念。
検査で見つかったのは「無呼吸症候群」。結果、象さんスタイルで寝てばかり。
何か夢は見ているようだが、それが何だったのか思い出せない。
やっと、いささか頭痛がおさまってきているようで。
「放置」してきたからから亭を久々に開けてみる。

参院選があった。
何処が勝って何処が負けたのか。投票率48,8%と言う数字。
政治は有権者に負けた。
何故負けたのか。政治が身近なものにならなかったこと。
「無党派層は寝ていてくれればいい」と豪語した元総理を想起する。
今の政権もそう思っていたのかもしれない。

世論調査で関心があると答えた人が8%とか3%の憲法問題や原発問題。

人生100年、年金足りない。2千万の貯蓄を。
そんな金融庁の報告書も“受け取り拒否”する政治。

今度の選挙の意義がわからない。

「あなたが政治を見放しても政治はあなた方を縛り続ける」。そんな“持論”も意味を為さなかったようだ。

今度の選挙で国の形を変えたのは「れいわ新撰組」という政党の出現。
2人の当選者が車椅子で議席を獲得し、議場の「形」を変えたこと。
これだけは特筆すべきことだったのでは。

政治を上から見る既存の政治、下から見ようという山本太郎の思考。
こいつは化けるかもしれねえぜ。
「生産性」という言葉への抗議。生きている人にはみな意味があるという思想。
この「れいわ現象」がこの無意味な参院選の唯一の「収穫」だったのかもしれない。
多分、指呼の間にある衆院選の“焦点”になるかも。
既存政党は敢えて語らないが、この現象を恐れているはず。

選挙が終わった途端、マスコミが伝えるのはこぞってのオリンピック、オリンピック。
連日の猛暑報道。こんな気候の中でオリンピック・パラリンピック。
狂気の沙汰じゃないの。
特別な環境が整備されていても猛暑は猛暑だ。

「温暖な気候です」と“気象予報士”の安倍くんは嘘を言い、挙句原発はアンダーコントロールと来たもんだ。
この時期のオリンピック開催となったのは巨大なスポンサーであるアメリカの三大ネットワークに強要されたから。放映時間と視聴率。

すべては「オリンピック・パラリンピック」に向けて進んでいく。
原発を巡っては排気塔の取り壊した2Fの廃炉。
アンダーコントロールのためのお膳立て。
東電は政権のいう事なら何でもやる。
県民の要望は、裁判所を巻き込んで、大方無視。

もし、オリ・パラで熱中症患者が出たら、誰が責任を負うの。
「自己責任」だと片付けられるのがオチだ。

福島も猛暑だ。野球とソフトボール開催県にされて舞いあがってる場合じゃない。
「お・も・て・な・し」という奇妙な日本語が“大流行”。
オリンピック期間中の一炊の夢にうつつを抜かしている。

橋本治ではないが「バカになったか日本人」だ。

北朝鮮がいくらミサイルを撃っても「Jアラート」は鳴らない。
韓国との関係は“不穏”だ。アメリカは手助けをしてくれない。

「経済の安倍」とアベノミクスが“誕生”した時、マスコミは誉めそやした。
いつの間にか「外交の安倍」と「タグ」を付け替えた。
成果だと自賛した北方4島。ロシアの首相が実効支配を誇示する。
中国もロシアも“無視”“無視”無視“。

マスコミは沖縄を伝えなくなった。米軍基地の為に5倍の経費負担を要求するトランプ。黙して語らぬ安倍。
♪馬鹿と阿呆の絡み合い♪ってとこか。

やがて来る「日本の一番暑い夏」に向けて、誰が、何処で、何を語るのか。

「京アニ」の放火殺人事件。アニメ好きの麻生も何も語らない。
暴力的政治、暴力的社会の空気が具現化された一つの現実なのに。

頭痛人の戯言でした。

2019年7月4日木曜日

「猿芝居」のいくつか

もう七月。「思う」ことはさまざま為れど、書けない、書く気にならない無力な日々。
政治が世の中の動きがあまりにもバカバカしすぎているから。

トランプと金正恩の板門店の「会談」を見て、思わず“猿芝居”という言葉が浮かんだ。トランプが猿に人相が似ているというわけでも無いが。
ツイッターでトランプが正恩に秋波を送り、正恩が即反応、会談に至ったと多くの無能なメディアが報じている。

外交交渉とは「裏方」がいて、何回も意向をすり合わせ、「首脳」はそれに乗っかっての「いいとこどり」と相場は決まっている。
というより、そうやって成り立って来たのだ。

ツイッターが取り持つ縁なんて有り得ない。

「拉致問題解決に協力するとトランプは安倍に言ってきたという。被害者家族は騙されている。板門店で「拉致」のことなど話題にもならず、それをメディアは誰何しない。
「自分が直接出向く」と息巻く。
ミスターX。小泉訪朝時のような黒子はもはやいない。

盟友ドナルドからは“報告”はないようだ。

参院選が公示された。安倍はまたぞろ福島で郡山で遊説第一声を上げた。
選挙のたびごとに福島を選ぶ。
あの「3・11」後の時ならそれも理解できないことは無かった。

安倍の「オトモダチ」のNHKの世論調査でも、もはや原発問題に関心があるとの答えは8%だった。
選挙の争点から「原発」は徐々に薄まって行く。

悲しい現実。

年金、2千万円の貯蓄。争点に急浮上した。
「年金2千万問題」を公表した官僚は金融庁、経産省から更迭された。
クビ・・・。

自分たちの都合の言い様に選んだ“有識者”なる鵺のような“専門家”。
その“答申”を政府は受け取り拒否というストライキ的対応。

結局、高齢者の不安を煽り、年金の世代間格差が国民を“分断”する。
マクロ経済スライドなどという言葉で煙に巻いて。

消費税10%へ。サヤを稼ぐかのような「悪巧み」に走る奴らのなんと多い事か。
キャッスレス決済が「便利さ」の名の下に社会に混乱をきたしている。

反政府の歌を歌った歌手は、「音楽が政治に介入すべきでない」と叱られる。
安倍は芸能人を招きよせ、若者を理解しているようなフリをする。

たしかにNHKさまによれば18歳から30歳までの若者には安倍支持が多いという。
「権力」と戦ったものだけど。昭和の若者は。香港の若者は。
国民栄誉賞を“拒否”したイチロー。格好いいな。

思いつくままに、取りあえず思いつくままの事象を列記しても、事に限りが無い。

身近なメディアのテレビは安倍批判からすっかり腰が引けている。
大方、コメンテーター含め「応援団」が闊歩している。
一部の番組を除いては。

選挙になるとテレビは各党党首を並べての“討論会”をやる。
1人の持ち時間を強制されて雁首をならべてしゃべっている。
なんとも「茶番」としかいいようがないのだ。

一月振りの“暴論”でした。


2019年6月9日日曜日

“暴力的“な社会、あるいは世間

しばらく入院していました。脳梗塞のリハビリ、あらゆる検査。
白い天井を見上げながらいろんなことを考えていました。
忍び寄ってくる老い。その身が何をどう考えて生きていくのか。
つまり老後をどうやって生きていくのかということかも。

病院で登戸の“通り魔事件”を知り、農水省事務次官の子供をころしたことを知りました。
まだ、それを自分の中でどう整理し、考えればいいのか。一言では言いきれず、確たる考えもみつかっていません。

あの時、瞬間的に頭をよぎったのは、これは「8050問題」の象徴的事件だ、ということでした。
高齢者の運転事故が連発しました。凄惨な事故。
これでもか、これでもかと言わんばかりのテレビの放送。

入院中、家内は「買い物難民」になっていました。
家から数百メートルにあった「スーパー」が唐突に無くなってしまったからです。

帰宅後買い物に来るまで行きました。
高齢者の交通事故。それは自己催眠、自己暗示の世界に導いてくれる物でした。
完全に自己を「萎縮」させてくれました。

自動運転の電車、横浜シーサイドラインで機械の故障による逆走事故がありました。人間の運転に運行は変わりました。
人間が運転する自動車は機械が運転する車に取って代わられようとしています。
嗤える出来事、世相。

おかみはタクシーを使えと奨励します。免許証を返納しろと迫ります。
しかし、その乗務員は大方が「高齢者」です。
安全のためにタクシーを使う。しかし、そのタクシーが事故を起こす。
嗤てはいけないけどやはり嗤える。

少子高齢化はますます顕著になってきています。
それが顕著になってきた30年前から、国は無策の策すらも取ろうとして来ませんでした。無策、不作為が与えた影響は大なるものがあります。

戦争だけではなく、形を変えた暴力はいつの時代にも存在します。

死語になったような言葉に「交通戦争」というのがありました。
あおり運転という暴力。それを警察は大方罪に問いません。
半ば公然とあおり運転と言う行為がまかり通っている感じがします。

形を変えた暴力。公害や原発事故。それらの事象は国が推進してきたものです。
貧困・差別・偏見。我々の社会は、そんな構造的暴力の上に成り立っています。

そんな暴力、罪科から抜け出す方途はないのでしょう。
2千万の蓄えが無いと老後は過ごせない。責任を放棄した「おかみ」の言い分です。
数年前には「人生百年安心プラン」などというお題目で人気取りはかった政権。

幼子や乳呑児を殺める「親」。施設で殺される高齢者。
そんなこんなの出来事に行政はあまりにも無策すぎるし、自分たちが果たすべき役割を認知せず、叱責の声が頭を通り過ぎるまでとりあえず頭をさげてお詫びだけはしてことを済ませようとする風潮。

「人類に与えられたことの全てには為政者が、政治が関わっている」。

テレビのワイドショーのコメンテーターと称する人の中に、キチンとした時代認識をもって語れる人がどれほどいるか。
大方は“ギャラ稼ぎ”の感情論ばかり。

それでも懲りないテレビ。
お前らいつまでも正義顔してんじゃねえよ。

見えないものを見る眼を養ってくれよ。ネット礼賛から引いてくれよ。
いつの頃からか蔓延しているミーイズムの発想。

暴力的社会構造は「平成」という時代から引き継がれている「政治課題」なのに、それが国会で議論されたと言うことは未だ聞かない。

2019年5月3日金曜日

憲法と個人~憲法記念日に思ったこと~

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

憲法13条の規定。幸福追求権の条文とされている。

世情はこの条文から大きくかけ離れた状況の中にあるような気がしてならない。

この条文の中に、例えばプライバシー権と言うものも読みこまれるはず。
憲法が保障している権利が、今は「危うい」立場になっている。

それは思想信条の問題だけでは無い。
AIという「シロモノ」が跋扈し、より肥大化していく時代、いわゆる“個人情報”はAIによって、その人を“切り分ける”
必要な人間か、不必要な人間か。

極端な例だが、「相模原障害者施設で19人が殺された事件」。
犯人は障害者には生きている意味が無いと言い放った。
機能的に使えるか使えないかをイチかゼロ発想で結論を出す。
この“デジタル化した論理”に行きつく先にはなにがあるのか。

まさしく憲法の冒涜だ。

今年の憲法記念日、このことをしばし考えていた。

「個人として尊重されていない」。それは国の施策のいくつかにも垣間見られることだ。憲法が捻じ曲げられて通用している。

令和天皇はその「即位後朝見の儀」の「お言葉」で「憲法にのっとり」という言葉を使われた。
平成天皇は「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」と宣言をしていた。

「守る」と「のっとり」には憲法に向かう姿勢にいささかの違いがあると感じた。
令和天皇が考えて語った言葉なのか、他からの助言で語ったものなのか。

「令和」の始めに思った憲法記念日のつぶやき。

2019年5月1日水曜日

「令和」が“ディストピア”でないことを

暦を一枚めくり時代の呼称は「平成」から「令和」に変わった。
形としてはっきり見えるのは天皇が変わったということだけだ。
時代は一日にして変わることはない。

平成の時代にあった事はそのまま令和に受け継がれていく。平成の時代に起きた最大の国難「原子力発電所」の爆発、メルトダウン。
汚染水は元号が変わろうとも、漏れ続けている。
原発事故の処理は終わりが見えない。避難者はあくまでも避難者であり続ける。

昭和の後期から平成。文明なるものは進化を続けた。
人間が良かれと思って作り上げた“文明の象徴”としての原発は、それが猛り狂った時にそれを処理することが出来なかった。
人間が文明と言うものに負けた。自分たちが作り上げた物で自分たちの生活が壊された。

しかし、文明はとどまることをしなかった。
AIという優秀な計算装置を「よきもの」として受け入れ、人工知能と人間の知性を競わせようとしている。
バカバカしい限りとしか表現できない。
やがてAIなるものが“事故”を起こし、この国が壊滅する事すらありうるかもしれない。ディストピアとして。

社会政策はまともに機能せず、日々の暮らしに喘いでいる人のなんと多いことか。
政治はそれらのことに概ね無関心だ。

ゴールデンウイークの人の賑わい。令和を“祝う”人の群。それは政治家がいう「声なき声」ではない。

令和の最初の“試練”はオリンピックだ。オリンピックという美名が国の実相をおぼろげなものにしてしまっている。
テロ対策に不安がある原発の再稼働は認めないと規制委員会は言う。たぶん、オリンピックと言う「おまつり」を意識した上でのことだろう。

平成天皇は象徴としての意味を行動で示された。象徴天皇の意味を教えてくれた。
その教えは令和天皇にも受け継がれていくであろう。
天皇が象徴であるということには大きな意義がある。

グローバル時代のキーワードは「分断」だ。
もし、社会の分断に政治が直面しても、社会の統合が象徴天皇によってなされるという一種の安心感のようなものが日本人にはあった。

元号の呼称にはあまり意味を見出せない。
「平成」と言う名の時代が終わり「令和」と言う時代が始まるだけのこと。
その元号によって、その時代を生きた、生きて来た人たちが何を考え、行動するかということに“時代”と言うことの意義がある。

少なくともジョージオウエルの名著「1984」に書かれた“ディストピア”は現実としては杞憂であった。
1984年と言えば昭和59年。ロサンジェルスオリンピックのあった年。
来年2020年は東京オリンピックの年。

「戦争は平和なり。自由は隷従なり。無知は力なり」。そんなスローガンが、テレスクリーンを通して我々の前に登場するかもしれないと言う“夢想”。

令和の“騒擾”は来年を目指してさらに進行する。
メディアは特に国営放送はメダルを言い募り、選手が過酷な環境に追い込まれることもいとわない。すでにして、テレビのここ数日の「令和」報道、その過剰なること。「同調」を促しているかのようだ。
この国は令和とともに次は「オリンピック一色」になる。

“悲しいまでの凡庸”な政治家たちによる“まつりごと”が繰り返される。
それはディストピアの始まりを予感させるものとなるのかもしれない。

平成への懐古、それは令和と言う時代への一抹の不安からくるものかもしれない。

令和天皇の名前を騒ぐ人たちに聞いてみればいい。「徳仁(なるひと)」と答えられる人は驚くほど少ないはず。

2019年4月25日木曜日

平成へのレクイエム

間もなく「平成」という時代が終わる。元号とは天皇に付随したものだが、一つの「時代」として語るための区切りとなるとも思う。

平成は昭和天皇の崩御により始まった。
国は喪に服し、“歌舞音曲”は自粛となり、テレビのCMで井上陽水が「みなさんお元気ですか~」と車の窓を開けて叫ぶCMは禁止のやり玉にあがる筆頭だった。

昭和の時代に東京から郡山に来た。平成という時代を「地方」からずっと見、考え時には語って来た。

平成のバブル。その萌芽は昭和の終わりごろからあった。そして「開花」し「はじけた」。バブルの余禄に与った人は当然いただろうが、多くの庶民は困惑の中に放り込まれ、さまざまな社会問題を生んだ。
それに対して政治は“処方箋”を書けなかった。
すでにして、人口減少・少子高齢化が言われ始めていたものの、政治は何ら手を打てなかった。

地方の時代が標榜された。為政者(おかみ)がやったことは「ふるさと創生基金」と称する1億円のばらまきだった。無意味な所為だった。
かくほどさように、政治は明らかに劣化し、格差の拡大を止められず、政治倫理が言の葉に上り続けた。
劣化した政治は平成から令和へと続いていく。
暴言と虚言と詐言の政治・・・。

暴力的政治はいつまでつづくのだろうか。

災害・天災の多い時代だった。しかし誰一人として「方丈記」の世界を想起した人はいなかったようだ。

阪神淡路大震災がボランティアという“相互扶助”のシステムを作り上げた。
国の“無策”への“一揆”のように。
東日本大震災でもその後の熊本地震や西日本豪雨でもそれは機能した。

東京電力福島第一発電所の爆発、メルトダウン。
梅原猛は「文明災」と呼んだ。
今もこの「爆発事故」は継続中だ。
この時、文明と言うものの脆さと危うさに多くの人は意を用いなかった。
次世代、次々世代いやもっと先までこれは続く。

平成が残した財産とはこのボランティア・子供食堂の誕生。
政治とは無縁のことばかりだ。

表立った戦争は無かった。それを想起した政治家や一部の人たちはいたけれど多くの国民は「否」の意志を堅持した。

「3・11」と同時進行のようにテレビのデジタル化が完成した。
国のご加護を受けたかのようにデジタル用の液晶テレビを量産し、儲けに儲けた家電メーカー。今は倒産の危機にあえいでいる。
テレビはスマホにその地位を明け渡し、大方「くだらない」番組作りに勤しんでいる。

人びとはインターネットを手にし、AIという言葉の実相を理解しようと必死だ。
高性能なインターネット、つまりAIが人間を凌駕するかどうかに血道を上げている。
人びとはSNSなどを通じて思いを述べるようになった。広報機材として活用する様になった。
しかし、大方SNSで書かれる言葉は「思い」であって「考え」ではない。
その結果、“反知性主義”が世を席巻する。

令和へのツケは山積だ。
急速な少子高齢化の進行。それがもたらす社会システムの社会公共政策の無策。
国債と言う名の国の借金。
国力国情とは不似合いな借金の積み重ね。それは令和以降の人たちへのツケとなってのしかかる。現世代が無意味な浪費を重ねて来たツケ。

オウム真理教事件も平成で特筆される悲劇だ。テロだ。
高学歴の若者がなぜ麻原の下に入って行ったのか。
平成の終わりごろニュージーランドやスリランカでテロが相次いだ。
ISは殲滅されていなかった。9・11を思い出す・・・。

我々の世代は「本」を読んで育った。本を読むという行為は“娯楽”にも匹敵した。
ついでテレビと共に生まれ育った世代が登場する。考えることがだんだん出来なくなった世代。そしてスマホが無ければ生きていけない社会に・・・。

時代は同じでも、価値観が違う世代が同居している「平成」。

最後に一つだけ。天皇ご夫妻のことだ。
かれらに限りない「畏敬の念」を持つ。
3・11後、日本は一つだ。というスローガンめいたものがあちこちでいわれた。
一つにしたのは両陛下の象徴としての慰問の旅。その在り様。
陛下の行いがこの国の根幹を救った。

「天皇陛下のおかげで日本は助かった」。かつて田中角栄がしみじみとして言うのを何回か耳にした。もちろんそれは平成天皇では無く昭和天皇のことを指したものだが。

象徴天皇の在り方。それを問いかけたのが平成と言う時代。

2019年3月24日日曜日

かくて「商業五輪」の扉が開かれ・・・。

JOCの竹田会長はいわば「犠牲者」だ。2億円以上の賄賂をIOC委員に渡した。
何が何でも2020年のオリンピックを東京に招致するために、誰かから「暗黙の指示」をされてのことだと聞く。
いつの頃からか、ロビー活動と称して、開催国を決定する権利を持つIOCの委員に金品による“買収行為”が行われるようになっていたという。
スポーツの祭典と言う「美しい祭り」の裏では、その他の事でもよくある「汚い行為」が行われていた。

カネのかかるスポーツの祭典、平和の祭典。それがいかに華美に走って行くのか・・・。開会式も閉会式も「ショー」と化し、さながらエンターテインメントの世界だ。

ブルーインパルスによる曲芸飛行が有り、コンピューター技術を駆使した、華やかな開会式をもって、国威発揚のためのスポーツの祭典が始まる。

いまや、東京オリンピックにどれほどの費用が投入されるのか誰も予想がつかない。

政治とスポーツは密接不可分の関係になった。
オリンピックは国威発揚の場になった。

今、この国にそれだけの「国力」があるのだろうか。
最初のうたい文句「コンパクト五輪」はうたかたの如く消えた。

福島の原発事故の「後遺症」は未だに色濃く残っており、何も解決していない。
除染作業は今でも我が家の周りで続いている。
ちょうどオリンピックの頃、1Fの汚染水を貯めるタンクは満杯になるはず。
トリチュウムを除去して海に放出する。それが国の方針だ。
汚染度は“中間貯蔵施設”に運び込まれてくるが、それとても“再利用”させるという。

「アンダーコントロール」などのかけらとてない。
8年前、プルームに乗って飛散した放射性物質は東京湾の汚泥の中に付着していると言われる。浚せつは出来ないそうだ。
オリンピックのためにつかれた嘘。大言壮語した安倍はもはや口にもしない。

まだ4万人の避難者がいる。帰還が可能になったところはどこも人が減った。
病院も機能していない。
そこには「健康で文化的な最低限度の生活」を維持するインフラは無い。

福島県民はどう思っているのだろうか。
野球・ソフトボールの会場になることを歓迎し、聖火のスタートをJビレッジとすることを喜んでいる。

冗談じゃないよ!

賠償金の支払いを東電はことごとく“拒否”している。
知事はじめ福島県民はもっと怒ってもいいはず。でも歓迎ムードに取り込まれていく。

テレビは毎日のように「礼賛」を押し付ける。スポンサー企業としての“使命感”か、電通スポーツ局の差配か。

商業主義が平和の祭典なるものを支配する。

この20年、オリンピック開催によって繁栄した国は無い。これからもそうだろう。2024年以降の開催地は何を考えているのだろう。

クーベルタン男爵によってはじまった近代五輪も、それを商業主義が支配する限り、そろそろ終焉を、終焉ではなくとも“異次元の見直し”が迫られているような気がする。

原発事故と五輪と。僕の中ではその両立が有り得ない。

例えばマラソンは早朝のスタートになったようだ。
アメリカの三大ネットワークの圧力。これまた商業主義の典型。
アメリカのテレビの視聴率に日本が寄与する。

ばかばかしい。それでも選手は走るということ。

2019年3月11日月曜日

「復興」とは何なのだろう

東日本大震災から8年だ。毎年考えて来たのが「復興」という言葉、その事象。
未だもって、「復興」を言う言葉には“わだかまり”があり、自分の中で“消化”されていない。納得できる“回答”を持っていないのだ。
今も「3・11」は続いている・・・。

勤労統計の“偽装”は、この国の根幹を揺るがした。
この国の“実態”を見えないものにした。
国の統計すべてに「疑惑をもって受け止める」という感情が生まれてしまった。

「国であって国で無い」。それがあの問題の本質だ。

「3・11」にかかわる数字だけは真正面から受け止める。

犠牲者数は「震災関連死」を含めて2万2100人を超えている。
いまなお避難生活を余儀なくされている人は約5万1778人。
東京電力福島第一原視力発電所の大事故により、福島県では約3万2600人が避難生活を強いられている。

その数字をどう受け止めるかは、その人それぞれの社会観、価値観の問題だ。
為政者から見る数字の意味と、さまざまな被災者個人から見るのとではその意味が変わってくる。

先日、新聞のベタ記事に近い扱いでこんな記事があった。
//消費者庁は6日、今年2月に実施した、食品中の放射性物質に関する意識調査の結果を公表した。放射性物質を理由に購入をためらう産地として「福島県」と答えた人は、これまでで最も少ない12・5%になり、2013年の初回調査から6・9ポイント減った//。

この原稿の書き方は違うと思う。
8年経ってもまだ12.5%もある。とすべきだ。

14時46分。黙とうをした。テレビでは追悼式の模様が映し出されていた。
「復興」という言葉が飛び交っていた。

「復興って元に戻るってことでしょ。戻らないわよ。新しく興すのじゃないと」。
三陸の被災者がそう言っていた。

そうだ、復興よりも新興というべきなのかもしれない。

福島でも「帰還困難区域」が解除になって行く。しかし、人は帰らない。
住むべき家は廃墟に近いし。
学校に子供はいないという現実は予想では無い。

少子高齢化。それの拍車がかかるのは「被災地」。
村や町が無くなる可能性も大だ。

原発汚染水のタンクは早晩パンクだ。海洋放出が現実味を帯びてくる。
アンダーコントロールは現代の最たる妄言だ。

山林除染は手つかずだ。

復興ってなんだろう・・・。

来年の五輪は復興五輪と位置付けられているそうだ。
Jビレッジを聖火リレーのスタートにするという。
福島県民の中には半数以上がオリンピックに懐疑的だ。

「私は、もともと東京五輪には反対だ。まだ、その時期ではない。「復興五輪」と銘打ちながら、東日本大震災や原発事故の被災地の復興とは無関係だ。むしろ、五輪関連の公共事業によって職人が不足し、復興の遅れや費用の高騰を招いていると聞く。原発事故の後始末もこれからだ。
 被災地にもスポーツ観戦が好きで、東京五輪を楽しみにしている人もいるだろうが、それどころではない被災者は少なくない」。
3・11後に日本に帰化したドナルド・キーン氏はかつてこう言っていた。

テレビや新聞は鉄道の再開や道路の再開を美しい見出しで報じる。
これとて真の復興なのか・・・。

復興という言葉が多用されている限り、復興は為されていないということだ。

復興とは何か。また1年考える。故郷とは何かという事も。

先ごろ亡くなった梅原猛は原発事故を「文明災」と位置付けた。
先ごろ亡くなった作家の橋本治は「バカになったか日本人」という著作を残した。3・11後のこの国を考えた上で付けられた題名。

そう、ぼくだってバカな日本人の一人だ。バカはバカなりに考えて行かないと本当のバカになるようで恐ろしい。

被災地のもろもろ、文明とは何か。考えることだけはやめない覚悟の8年の3・11。

2019年2月25日月曜日

74年後の「高配」

1945年、沖縄戦で最後の司令官だった大田実海軍中将は東京の海軍次官に打電した。
「沖縄県民斯く戦えり。今後、格別の高配を賜らんことを」。
そして、彼は自死した。

その後の沖縄の変遷。国は沖縄県民に対して“高配”があったのだろうか。
在日米軍の基地が70%沖縄に置かれている。その現実。

普天間を辺野古に移設すると言う国の施策。県民投票で示された県民の意志はNO。しかし、辺野古では“工事”が進む。

戦後74年の沖縄に示された“高配”。

3.11後埼玉の立教新座高校の渡辺校長は卒業生にこう告げた。
「3・11の時、お父さんやお母さんは何をしていたの?」子供に問われた時なんと答えるのか。知らなかった、忙しかったと言えるのか。
この日本で起きたことだ。福島までは電車で2時間余りで行ける。行って、黙って福島の海を見よ。と。

辺野古の住民投票の結果を知って、この言葉を思い出した。
事実、新聞紙面にあった那覇の記事。
「将来、子供たちに{県民投票の時お父さん、お母さんはどうしたの?}と聞かれたら、堂々と答えられるようにしたい」。取材中何度か聞いた言葉だ。

そう、その思いを本土の人間がどう受け止めるかだ。この結果をどう思うかだ。

想えば、2019年2月24日は日本にとって記憶に残る日だ。
3・11、東日本大震災を機に、日本に帰化したドナルド・キーン氏が鬼籍に入られた日だ。大事な人を失った日だ。
天皇在位30周年の行事が行われた日だ。
歌手の三浦大知が天皇陛下の作詞、美智子皇后が作曲された琉歌を歌った日だ。
誰よりも沖縄に心を寄せていた両陛下の想いが込められていた歌。

夜、県民投票の結果のニュース速報が流れた。辺野古NOという大多数の県民の意思が。

土砂で汚される辺野古の海を無理に見なくてもいい。
「民主主義」とはなんぞや。沖縄県民がその問い掛けを与えた。
そのことを我がこととして熟考するのが、遅まきながらも我々が出来る“高配”なのかもしれない。

2019年1月22日火曜日

憂しき世の憂しき事ども

日本は少しずつ衰退していっている感がある。
その一つは、あってはならない“虚偽”にこの国の姿が反映されているという事である。

「毎月勤労統計」の不正調査問題。あまりにもおぞましい。
勤労統計は国の基幹統計とされている。賃金などを毎月調べ、その統計数字が例えば雇用保険の金額などを決める。

その統計がサンプル数を含めて過少に計上されていた。いわば国が支払う保険料などが過少な数字のデータとして扱われ、予算にもそれが反映されていた。

国の中枢のサボタージュか意図的な偽装か。
東京で過少に抽出された“標本”が“全体像”として扱われる。
で、賃金が上がってます、という国の説明が出来上がる。
10年以上前建築物の「耐震偽装」問題が世を騒がせた。
今は、国の形が“対民偽装”されている。

大学の時、「統計学」と言う科目があった。どうにか「不可」にならない範囲で授業に出てはいたが苦手な分野だった。しかしこれだけは覚えている。
「統計とは国の基礎、基幹、骨格をなすべきものだ」という教授の言葉。

国の基礎が緩んでいる。

その伝で言えば、テレビの視聴率もどこかにまやかしが存在しているのかもしれない。
メディアが行う「世論調査」だって疑わしくも思える。

簡単に一言で言おう。「我々は国に騙されている」と。

およそ国の統計に信用が置けないという事は、例えばGDPだってほんとかいとなる。
債務残高のGDP比だって、♪そんな借金したことない♪てなことにもなりかねない。

来年には一人暮らしの高齢者が700万人を超えるという。

人口統計が正確ならばだが。

若者が減り、高齢者が増えている。その数字もあながち正解なのかどうか。

人口減少、地方消滅・・・。

原発事故による放射性物質の飛散の問題だってそうだった。
役所の2階で測る数値と測定器を地上に置いたのでは数字は大きく異なる。
学者が持ち出してきた、引っ張り出してきた線量の雲泥の差。
当時11歳の子供が100m㏜の被曝をしていた。その子の検査結果は“隠ぺい”されていた・・・。

原発事故は「数値」をめぐる騙しっこだったような。

我々は大方「数字」の世界に生きることを余儀なくされている。

あの自民党の二階幹事長ですら言っている。
 「統計法違反の疑いがある問題は、安倍政権下で大臣名による虚偽の説明書類の提出や、不適切な調査部分のデータ補正を始めたことが判明したとすれば、「いささかでも疑問点があってはいけない」と言っている。
 
官僚が“適当”に数字を作り、大臣は“めくら判”を押しただけという事か。
何かの意図を持って、そんな数字を作らせたのか。

沖縄・辺野古の埋め立て問題。地盤が軟弱な地域があり、建設計画を変更するという。
設計段階でわかっていたことなのに、「土砂投入」という既成事実を作ってから
計画変更。

なんか、同じ構図のように思える。

あらためて書く。我々は国に騙されている、と。

♪その手は桑名の蛤よ♪なのだ。

2019年1月14日月曜日

嘘とカネまみれの東京オリンピック

いまさらというか、あらためてというか。来年の東京五輪に対して「反対」の意思表示を事あるごとに書いてきた。

改めて自分の意志を明確に表明します。
「2020年東京五輪は国の名誉のために開催権を返上すべき」だと。

今度のオリンピック開催は安倍による嘘から始まった。
各国が杞憂している原発事故に対して「アンダーコントロールされているから問題ないという少なくともまともな福島県民を無視し、世界に対して嘘をついた。
「アンダーコントロールはされていない。福島の現場はおろか、日本の上空に飛散した放射線は天候の具合によっては東京圏の一部にも時折線量計の数値を上げる。

原発事故に関しては、この国の統治機構は隠ぺいに次ぐ隠ぺいが繰り返されている。

IOC総会でtokyoが決まった時にも書いた。
まともな国ならトルコに譲るべきだと。
イランイラク戦争時、空港が閉鎖され行き場を失っていた日本人をトルコ政府は特別機を飛ばして日本人を救出した。
エルトールル号事故の時の「お礼」だとトルコ政府は言った。
日本のメディアはほとんどがその“歴史”に触れなかった。

東京招致をめぐるロビー活動、IOC委員への買収工作が明るみに出始めた。
いつの間にか後追いの記事も無いまま消えた。
オリンピックに重要な権限を持つ「電通」の意向がそこにはあった。
メディアは電通には逆らえなかったからだ。
逆らえば放送種目でも不利な扱いを受けるし、スポンサーもつけないかも。
テレビは怖気づいた。

オリンピック施設の建設をめぐり、不可思議な金の問題が次々と明るみに出た。
それも線香花火のように消えてしまった。

竹田JOC会長の贈収賄疑惑がまた浮上した。フランス発で。
カルロス・ゴーンの逮捕への報復と言う見方さえすぐにネット上を駆け巡った。あながち違っているとは言えないが・・・。

去年大騒ぎになったサマータイム導入も、あおの発想がいかにお粗末かにそれなりの人たちが気づいた。その「構想」はお蔵入りだ。
ボランティア募集の大声はどこかスポーツとは別の事象を思い起こさせる。

オリンピックを目標に掲げるアスリートたちは大勢いる。それを人生を賭けた「夢」だと思っている若者たちも多い。オリンピックこそがアスリートの絶対的目標という思考が彼らにはいつの間にか擦りこまれて来た。大きな夢として。
しかし、彼らが活躍するフィールドは嘘とカネにまみれているのだという事を多くの人が無視する。

子供の頃からラジオから流れてくる実況を噛り付くように聞いていた。
テレビの時代になっても大のオリンピックフアンだ。

それとこの国の実情、オリンピックは完全に政治に利用されているという事とは違う。

テレビの特にNHKの東京五輪に向けての煽り方は物凄い。NHKだけの発案とは思えない。
チコちゃんが「全ての日本国民に問います」というフレーズの如く、国家総動員体制だ。
金栗四三を登場させたドラマ。田畑政治を登場させたドラマ。
これが何を意味しているのか。

マラソンの円谷幸吉は国家の強圧によって死を選択した。

国家・政治と完全に切り離されたスポーツの祭典は望んでいるのだが・・・。

梅原猛が亡くなった。また一人「知の巨人」がいなくなった。
市原悦子が亡くなった。「黒い雨」という映画に出演した位、彼女は反戦を訴え、戦争童話の朗読をライフワークにしていた。
「戦争をなくすこと、世界の問題と関わることも、女優の大事な仕事」と彼女は自著の中で書いている。


来年の「安倍のための東京五輪」を競技を堪能しつつ、冷めた感情を持ってテレビを見ている老人がいる光景。

2019年1月7日月曜日

俺たちはどう生きればいいのか

去年一番売れた本は「君たちはどう生きるか」という吉野源三郎の本だったという。
「コペルくん」は言う。「僕はすべての人がおたがいによい友達であるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進化してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行き着くだろうと思います。
そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います」。

「どう生きるかの」の問いかけだ。

その答えが「AI(人工知能、ロボット)」が“役立つもの”だとしたらコペル君はどう思うのだろう。

仮に僕が「コペル君」だとして、世の中のことに悩んだとき、それなりの答えを教えてくれる「叔父さん」はいない。
自分で答えを見つけて行かなければいけない。そう、この「老人」はどう生きるのかを。

去年から急速に台頭してきたような「AI論」。
どうも、身近の「センセイ」であるテレビは画像付きで、コンピューターグラフィック技術を駆使してAI礼賛の「空気」を醸成しているようだ。

将棋とAIロボットの対決を面白おかしく伝えてもいた。

そもそも「AI」とは何だろうか。僕にはその実相や存在意義がわからない。

人間はよかれと思って開発して来た者に裏切られて来た。
原発がその証左だ。
原発を作る能力や頭脳、技術を持ちながら、それがいったん事故を起こしたら、大爆発、大暴走を起こしたら、人類はそれを制御することは出来ない。
制御できたはずのものは自然界にある「水」だけだった。

いろいろな意味で人間生活に「明るさ」を与えるはずのエネルギーとしての原発は多くの人たちを破局に近い環境に追い込んでしまった。

原発の処理費用は40兆円を超えるだろう。
事故後の予測の5倍にはなるはず。

鉄腕アトムの生みの親、お茶の水博士は、アトムに「人間の心」を説き、「正義とは何か」を教える名教育者でもあった。

今、鉄腕アトムならぬAIロボットに、誰が「人間的教育」をほどこすのだろう。

日本の若手の研究者の間では2050年までにAI(人工知能)が人間の知能を超えるという“結論”を出している。
AI開発者の一人は「偏見なく少数意見も吸い上げるAI政治家は価値観、感情をもつ人間の政治家を越えた存在になるかもしれない」という。

「AIの進歩は目覚ましく、人知を超えつつある。」ということなのだろうか。

人知を超え、外見も人と区別がつかないAIが、政争に明け暮れる政治家を上回る政策を示せば、未来を決める政治の担い手は変わりうるかもしれない。

AIに「最大多数の最大幸福」とはなにかを問えば、人類は“奴隷”になるかもしれない。

あなたはAIと言うものに「支配」されることを是認できますか。
僕には出来ない。

原発と人類は共生存も共存も出来ない。そんな結論を我々は体得したはずだ。
しかし同じようなことがAIとの関係でも起きてくる気配がある。
人間の頭脳が開発したAIが人間生活に利点をもたらすものとばかり思っていたら、突然のしっぺ返しをくう可能性は大だ。

AIの前に跪くのか、AIを睥睨してみるのか。
AIを生かしつつ、解なき問いを熟議し、決断することが人類の知恵となる。という人も居る。

“お茶の水博士”がいて、AIに人間の倫理観や宗教観、死生観を教え込んだらどうなるのか。

流行物のようにAIが取沙汰されているこの世の中が恐い。

人間がコンピューターに利用されるようになるとは思いもしなかった時代は去る。
共生を考えねばならない時代になる。
スマホに支配される時代を国は強制してくるようだ。

政治をAIに任せた方が人間は幸福になるのだろうか。

「コペル君」教えてくれよ、一緒に考えようよ。俺たちはどう生きるのかを。

レジ袋を巡る“謎”

今日からいわゆる「レジ袋」の無料配布が終了になった。 レジ袋ってポリエチレン製なのかプラスチック製品なのか。まずそれからしてワカラナイ。 ポリとプラの区別もワカラナイ。 ポリ塩化ビフェニール、なんて言い方も聞いたこともあったが。 それが、環境に悪影響をもたらすものなの...