2011年7月19日火曜日

「消費者」と「生産者」と

「消費者の安全を考えて」「消費者の不安を無くすため」「消費者に安心していただくため」「消費者の方には申し訳ない」。等々。

放射能汚染による食品問題。世の中に染みついた消費者保護の完璧なる思想。政府の言い方やマスコミの言い方。消費者っていったい誰なのか。どういう部類に属する人なのか。都会に住んでいる「もの買う人々」のことかい。

世の中、たとえば需要と供給とか、生産者と消費者とか、二極分化で成り立っているように定義付けられる。往々にして。しかし、その二つの線引きはどこにあるのか。

生産者だって日常の生活に必要なものは買う。それは消費行為。国民全部が消費者のはず。屁理屈のようだけど、たとえば政治家がどこの党でも「国民、国民」と連呼するけれど、その国民とは誰をさしているのか。きわめて概念的な呼称。

たしかに、高度成長期。日本経済を支えているのは生産者だった。生産者優先社会。数々の法律も生産者保護を目的とした。
バブル崩壊後、一転。日本は消費者保護、消費者優先社会の構造になった。だれしもが消費者保護、安全、安心を「社会政策」として捉えた。

世間を騒がしている肉牛問題。セシュウム汚染のイナワラをエサにした牛肉問題。流通経路が調べあげられ、購入した“消費者”までは特定出来ないまでも、売った店まではたどり着く。肉は回収、福島県の牛は出荷停止。生まれが福島なのか育ちが福島なのか。

牛肉は消費者が食べるものと決め付けるようなメディア。酪農家も肉は買って食べる。食肉加工しなければ食べられない。酪農家だって肉の消費者だ。

今日の週刊朝日の広告見出し。「本誌デスクも汚染牛肉食べた」。羨ましいよ、牛肉食べられるなんて。で、だからどうだって言うの。心が汚染されまくっている週刊誌さん。

“汚染”された肉を食べる恐れありとかで都会の人は戦々恐々。食べたら死ぬのごとき騒ぎ。消費者はいわば「被害者」といった扱い。牛を出荷した農家、藁を出した農家は「加害者」扱い。
何千万円もの牛が出荷出来ない。まさに死活問題。消費者保護という“美名”のもとで、その人たちの健康を保護するという目的で取られる措置が生産者を「死」に追いやる。

そして片や、いわば電力の生産者である電力会社の供給量を鵜呑みにしての節電、節電。消費者である需要者は、文句も言わずに節電に耐える、同化する。過度な節電が健康に害を及ぼすとしても。

暴論承知。あえて問う。消費者って何と。得体のしれない“消費者”というカテゴリーが妙に市民運動という“空気”とだぶって見える。
それもこれも菅が総理大臣をやっているせいか。八つ当たりの話ですなこれは。

きょう菅はなでしこと会うとか。シュショウという言葉の違い。首相はダメ。主将は最高。サッカーまでも政治利用、延命利用する菅。なでしこの心中複雑なりと。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...