2012年8月23日木曜日

会ったことに意味はあったのか

夏の全国高校野球。またも真紅の優勝旗は白河の関を越えなかった。
東北にとっての“ジンクス”か。
高校野球にある一つのジンクス。エラーした方が負ける・・・。
残念だが・・・。

すべての高校球児の健闘をたたえたい。戦ったことすべてに意味があったのだ。

嫌な大人たちにことを書く。
“ジンクス”という言葉を敷衍するのはいかがかと思うが・・・。

政界用語の一つに「会うことに意味がある」というのがある。“ジンクス”ともされてきた。外交にもそれはある。
それまで“対立”していたり、物事の進捗を妨げていたことを取り除く手段として。

過日の野田と谷垣の会談にも当てはまる。が、この言葉は政治に手錬た人に当てはまる言葉。政治音痴には通じない。国会運営をめぐるその後の、最近の自民党幹部の発言をみればわかる。結局、「会った」谷垣はコケにされ、問責だの何だのと。

自民党に政権奪還の意思ありや。馬鹿な言辞や行動の数々は、ますます国民をしらけさせ、結果、維新の会なるものの価値を高めさせ、国会議員がよってたかっての橋下詣でのような現象・・・。

橋下維新の会とはいったい何なのか。あてはまる言葉が探せない。自分たちがこの国を変えられるという過信のもとの集団とも思える。

維新の会を支持し、それに期待する国民も多いらしい。週刊誌は好んで書く。その議席獲得予測を。

もし、その会が政党要件を満たし、選挙で第一党になれば・・・。あの、鳩山民主党政権再来といった危惧を覚える。明治維新の時代とは違うのだ。素人集団ではだめなのだ。明治政府が基礎を築いた官僚機構は、すでにして政治家の統治が及ばないものにまで成長しているのだ。

目立つのを好む渡辺善美と橋下が会ったという、会ったことに意味が会ったと言うが・・・。

以上はどうでもいい話。以下本題。

反原発首都圏連合のメンバーが、菅の仲立ちで野田と会った。“会談”をした。まさに“怪談”である。

この会談に何の意味があったのか。
出席者の一人が言っていた。「ドラムを大きな音量で叩くのは、その音で、総理に気づかせたいから」というようなことを。じゃ、会ったのだから、声は伝えたのだから、それで終わりとならないのか。

この市民運動。「フクシマ」が無ければ起きていない。それだけは確実に言える。
しかし、福島の地からそれを見ていると、なにか常に奇異なものを感じる。最初の叫び声は大飯再稼働反対だった。次は原子力規制庁人事撤回だった。

そして、彼らは、ネットで集まってきたという彼らはネットで毎日書いていた。「どこも既存のメディアは我々の運動を伝えない」と。
やがて参加人数が増えてきて、テレビが取材に行くと「どこの局が来た、なんとかいうレポーターが来た、新聞が取り上げた」と。
要するに自分たちが貶す既存メディアに取り上げてもらえるかどうかが関心事。貶していたメディアを一晩にして評価する。
彼らの要求には政府は国民の声を聞けというのはあった。しかし、野田に面会を求めるものは無かった。そして登場する、福島原発事故発生時の最高責任者だった菅直人。

市民団体は市民運動出身の菅を責めない。福島県民からすれば、菅の責任こそ問われるべきものだと思っているのに。

前総理が仲介して現総理と会談させる。前は市民団体に軸足を置いている。何とも不可思議な構図。

会った。何かを得たのか。「承服しかねる」と席を立って行ったという。抗議行動は続けるという。
30分の会談は全部公開だった。だから裏取引はないと思う。手ぶらで帰った代表達。みんなに何というのか。「やはり野田はだめだった」としか言いようがない。

もともとは会うことを目的としていた集会ではなにのだから。
野田の側は言うだろう。「反対運動をされてる方々にも真摯に総理の考えを伝えました」と。

官邸側からすれば一件落着の構え。

最初から、理解しあえるはずもない両者の会談。何の意味があって、何か得るものがあっての会談だったのか。

まさに“怪談”としか言いようがない。全く無意味な話し合い。

飛び交う言葉は「原発」なれど、被災地福島の実情との大いなるかい離・・・。

市民による反原発運動はおおきなうねりとなっている・・・そう一部マスコミは書くけれど・・・。

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