2012年8月14日火曜日

続・までいの力

3・11後に出版された「までいの力」。福島県飯舘村を舞台にした物語。物語とは架空のフィクションをいうのではない。人にはそれぞれの物語がある、持っている。
その本は3・11前の美しい村と、そこに住む美しい人達の生活を綴ったもの。

今回出版された続編は、3・11後の村を記録したもの。その本がようやく届いた。

帯に書かれて菅野典雄村長の言葉。
「原発事故から私たちは何を学ばなければならないのか。成長社会から成熟社会の日本のあり様を、次世代にバトンタッチしていくことではないか。その中に、本当の豊かさとは何か、その問いかけは私たち地方からこそ、訴え続けていかなければならないと強く感じます」。

本当の豊かさとは何かー。重い問いかけである。しかし、日本人はそれに真摯に向き合わねばならない。多くの原発事故犠牲者の労苦を無駄にしないためにも。

菅野村長の言葉は講演でも何回も使わせて貰った。
全村避難を決定した時の言。「二年できっと戻ります。戻りましょう」。彼は言う。1年では絶対無理だ。3年では長すぎる。2年ならどうにか我慢して待てる。科学的根拠がどうだこうだという問題ではない。リーダーが生きて行く目標を示す。これが一番大事なことなのだと感じ入った。

現状、飯舘村は揺れている。まして区域再編があってからは。村に踏みとどまっている企業もある。しかも上場をもくろんでいる。もう帰らないという住民もいる。
長泥地区は立ち入り制限のバリケードが張られ、最低6年は戻れない。

住民にもいろいろな意見がある。不満を持つ人も多い。しかし、菅野村長を悪しざまにいう人はほとんどいない。
2年で帰れる。誰も信用していなかったはず。でも、それを“はったり”だと思っても、ありえないと思っていても、責任ある人のはっきりした「言葉」を人々は欲していた。だからだろうか、「あんたはうそつきだ」と言っている人はまずいないと思う。
続、までいの力。それは、この村に心を寄せる出版社が書いて編集した本である。多少の恣意はあるだろう。しかし、3・11後から現在までの飯舘村をとりまく人間模様を素直にとらえていると見る。菅野村長は中学生を外国に研修に送り込み、見聞を広めさせ、人作りを村の再興のための一番のものと位置付けているような。

本の中にこんな一節がある。菅野村長の広報誌に書いたコラム。「うちはみんなが悪いのです」。

「ある子供の作文をコピーして今でも持っています。

きょう私が学校から帰ると、お母さんが「お兄ちゃんの机を拭いていて金魚鉢を落として割ってしまった。もっと気をつければよかったのに、お母さんが悪かった」言いました。するとお兄ちゃんは「端っこに置いていた僕が悪かったんだ」と言いました。でも、私は、昨日お兄ちゃんが金魚鉢を端っこに置いた時、「危ないな」って思ったのに、それを言わなかったから、私が悪いと言いました。夜、帰ってきてそれを聞いたお父さんは「いや、お父さんが金魚鉢を買う時、丸い方でなく四角い方にすればよかったから、お父さんが悪かった」と言いました。そして、皆で笑いました。うちはいつでもこうです。うちの家はいつも皆が悪いのです。

この作文を引用して菅野村長はこう書いている。

子どもから教えられることはよくあることですが、この作文からも考えさせられ、反省させられます。相手のことを思ったり、気遣ったり、あるいは「お互いさまだよ」ということは、日本人特有の良いところだったはずです。ところが近頃、自分中心に物事を考えて発言したり、行動したりする人を時々見かけることがあります。どのような大変なことに出くわしても、この子の家庭のようであれば、乗り切れるような気がしてきました・・・。

「美しい村など初めからあったわけではない。美しい村にしようと思う人達がいたから、村は出来た」。そんな誰かの、モローだったかな、そんな言葉をまたぞろ思い出して。

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