2012年8月6日月曜日

「原爆」と「原発」、あらためて・・・

きょう朝8時15分、広島の方角にむかって黙とうした。今日は広島に原爆が投下された日、原爆の日。

「原爆」と「原発」。去年のきょうも書いたと思う。そのあまりにも明確な共通性と、その意味とを。

今から67年前。メディアという言葉は存在していなかっただろうし、原爆を報道したのは、報道統制下にあった新聞とNHKラジオだけ。
今とは比べようもないほどの「情報網」。その中でも日本中にいつしか原爆の事は伝えられた。

原爆投下時、ボクはたぶん、姫路にいたと思う。親から「黒い雨」を聞かされ、雨の日の外出を禁じられた。そして数日遅れで配られてくる新聞で、その惨状を知った。子供が理解できる範囲で理解しようとしていたと思う。

後になって知ったことだが、さまざまな流言飛語、デマがとびかっていた。それは正確な情報が伝えられなかったということだけではない。
今、原発事故の後、未だ持って、放射線の放射能をめぐる様々なデマが飛び交っている。これだけ情報ツールが発達し、これ以上は無いだろうと思われる時代にあってすら・・・。

福島原発事故は、それが不作為であろうとなかろうと、人災である。原爆も人災である。上官の、国の命令によって一人の兵士が投下ボタンを押した・・・。

それ以前の問題がある。「科学」である。原爆の製造、実際に兵器として、確実に“成果”を挙げた核兵器。それの“成功”。アメリカの科学者たちは小躍りして喜んだという。しかし、「黒い雨」を含め、その被害の甚大さ、影響の大きさには思いを致していなかった。まさに「想定外」だった。
その「想定外」に長崎以降、アメリカは気付く。

原発事故も、想定することをしなかった、「想定外」である。原発を開発した科学者たちは、それが完成した時の、研究者としての「よろこび」にひたることで満足していた。

原爆も原発も、著しく想像力を欠いた科学技術の進歩がもたらした人類の悲劇なのだ。

核と人間は共存しえない。それをなんとなく理解しながらも、「核の抑止力」という世界を安全に保とうとする、国際政治の上での“安全神話”から、未だ脱却出来ていない。たぶん、その呪縛から逃れることは出来ないのだろう。

「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」という“出発点”を持っているにもかかわらず。

広島には学生時代を含め何度足を運んだことだろう。突き動かされるように広島に行った。原爆ドームの前に立ち、資料館の中で立ちすくんでいた。

被爆によるものではないが、祖母は戦火に巻き込まれ、防空頭巾の上から火をかぶり、一命は取り留めたが、顔や上半身には終生消えなかった「ケロイド」を持っていた。
炎天下の8月から9月。ケロイドを負った祖母の手を引いて小さな子供は多くの人で込み合う医者に通っていた・・・。

原爆と原発。それは、いかに情報手段が発達していようとも、“差別”を生む。
人間と人間の間に「壁」を作る。そして、その差別は年を経るごとに助長されていっているかのようだ。

広島での「平和記念式典」。「祈念」と書きたいが。その式典に参列した野田の言葉のなんと空疎で、無意味なものか。被爆者にも被曝者にも、被災者にも寄り添っていない。

そして・・・。祈りの日であるべき今日。式典の外に大きな音で響いていた、「野田帰れ!」「原発止めろ!」のシュプレヒコール。
福島から広島に疎開している子供の心情が披歴されている中でも、その声は止まなかった。

きょうは祈りの日なのだ。広島だけにとどまらず日本人全員にとっても。原爆の犠牲によって被爆者の犠牲によって、今を生かされている人が多数いることを忘れてはいけない。

福島県民にとって広島は他人事ではない。福島にもやってくる広島化。福島県人が、確固たる信念を持って立ち向かい、生きていかねば、“風化”という次の災いが待っている・・・。

少なくとも、広島、長崎を受け止め、核に対する、あらゆる意味での「総括」をしておけば、福島の悲劇は招来されなかったかもしれないのに。

「科学」とは一体何なんだろう・・・。人を幸せにするための学問・研究だったのではないのだろうか・・・。

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