2012年8月19日日曜日

「僕は高校生に教えられたのです」

去年の3月14日頃から、郡山には原発事故の避難民達が次々と到着してきた。
すでに3月11日の夜からは原発避難民の前に家が倒壊した市民もその避難所に多数身を寄せていた。

その避難所、郡山の開成山球場。多くの人がそこに集まってきた。そこにいた。
損壊した市役所の職務もそこで行われ始めていた。

彼は一人でその避難所に行き、ボランテアの登録をして、支援活動に専念した。

彼の父親はその頃、東京の病院に入院中。大きな手術を控えていた。その手術に欠かせない母親を兄弟や従兄弟が車で大宮に運び、そこで別の兄弟にバトンタッチ。それを見届けると彼はすぐさま避難所に駆けつける。

彼は38歳独身。会社の社長でもある。数十人の従業員を抱えた。社屋も自宅も地震でかなりの被害を受けた。自宅は寝る場所だけは確保。仕事の合間をぬって避難所に通う。

彼は、今になって語り始めた。「ボランティアに行きたかったんです。どこの組織にも属しておらず一人で来る人はちょっと奇異な目で見られたようでしたが。
そこで物資の運搬などを手伝っている時、その場に大勢の高校生がいたのです。市内の。彼らは一生懸命働いていました。彼らの姿を見て、ボクは、今、自分がやるべきことを見つけたのです。学校の指示ではない、自発的な意志での高校生たち。彼らに教えられました」。

彼は今、表で遊べない子供たちにために設けられた子供の遊び場に通っている。こども達のためのボランティア活動に時間を割いている。そこの運営に携わる者として、“指導員”の資格をとり、こども達と触れ合い、共に遊び・・・。

「最近はお母さん達の話を聞いてあげるのが仕事のようになりました。子供たちが遊んでいる間。お母さんたちは皆、悩んでいるし、辛い思いをしているようです。放射線量がそんなに危険な状態ではないと言ってあげると少しは安心してくれます。話をして溜まっていたものを吐き出すとお母さんたちはいくらかほっとして子供と帰っていきます。おかあさんたちにはいろんな情報がどこから仕入れたのかわからない“キケン”という情報が刷り込まれたいます。
それを少しでも解きほぐしてあげれば、明るい表情で帰っていける。明るく元気なお母さんと一緒にいることが、子供たちにとっては一番いい環境なのだと痛感しています・・・」。

彼はあらためて言う。「僕が今日あるのは、あの避難所で働いていた高校生の姿が原点にあるのです」と。

去年、津波で壊された街でも、ボランティア活動に励む高校生たちがいた。夏の高校野球を控えて、仕上げの時期に入っていた野球部員たちも大勢いた。
被災地の人たちは、高校生によって助けられ、励まされ、その健気さと、逞しさに感動した。

いろんな高校生がいる。コンビニの前に座り込んだり寝転んだりして、煙草を吸っている奴もいる。「いじめ」にかかわる高校生もいる。受験勉強に励む高校生もいる。全国各地で被災体験を、避難体験を、住めなくなった故郷を語り伝える高校生達がいる・・・。

甲子園はきょうも燃えている。

オリンピックの事を書いた時にも触れた。本当に苦労してきた者には苦労している人の気持ちがわかるのだ。

38歳の彼の話を聞きながら思う。「俺は何をしているのだろう」と。もっと出来ることがあるのではないかと。惰眠をむさぼっているのではないかと。自責に駆られる。

去年、原発事故で住むところを追われた人達や、その町や、村を撮った「無人地帯」というドキュメンタリー映画のあることを知った。郡山でその上映会をしたい。郡山文化協会に提案してみた。結果・・・自然消滅状態になっている。その映画の監督は、あらためてその続編を撮り始めている。夏編、秋編と撮って行くと言う。

その上映会でも出来たらとあらためて思う。

惰眠をむさぼっていない人達が、回りにいるという事実・・・。38歳の若者に教えられ、映画監督にも教えられる。
「老にして学ばば、死して朽ちず」。そうなんだよな・・・。

“チェルノブイリ”異聞

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