2012年12月12日水曜日

「福島にとっての“正しさ”」

昨夜は月に一回の塾。粒々塾。http://www.ryu-ryu-juku.jp/
今回のテーマは「今、我々にとっての正義とは」。前回に続いて考えて貰った。

考える。正義と言う言葉を持ち出して、それの「回」は求めにくいものを、敢えて考える。結論は出ないことを承知で。難しいことを敢えて考えてみる。
それは、今の人たちが「考えることを止めた」から。思考停止に陥っているから。

だから、考えるという作業を通じて、彼らに「覚醒」してもらいたかったから。
「正義」と言うと、大上段に振りかぶった、ともすれば哲学論や思想論になりやすい。それを排するために、あえて「正しさ」という、それは違った観念、概念であることは承知で「正しさ」を問いかけた。

いろんなケースを引き合いに出しながら。国家の正義、個人の正義。それを語った前回に続いて。

なぜ今の日本人は考えることを止めたか。即座に答えが返ってくる。「文明が進歩し、便利なもの、便利なツールが出来たから、考える必要が無くなったのではないでしょうか」と。そうだ。

考える事は面倒なことだ。その面倒さから逃れても、それを凌駕出来る”便利なもの“を我々は多く抱えている。面倒なことはめんどくくさい。

「だけどね、それが良くないことであるという教訓を与えてくれたのが、“3・11”じゃないかな」と問いかける。

真面目に向き合ってくる塾生との対話、彼らにあたえるヒント。面白い。

必定、話は選挙に向かう。
「選挙、それは好むと好まざるとに関わらず、それがある以上、それについて考えなくてはいけない。思考停止のままではいけない」。

「12もの政党があり、どうしたらいいのか迷います」と言う。そうだ、迷え。そして考えろと答える。選挙とは国民に与えられた権利であり義務なのだ。それを行使するのは「正しい」ことなのだと。その正しさを実践するために考えろと。

一人が答える。「正」という字は一に止まると書きます。一旦立ち止って考えるってことですよねと。うまいことを言う奴がいる。
別の一人が答える。「正しい」の反意語は「不自由」なんじゃないでしょうか。
不自由を乗り越えろってことなのでしょうかと。

そう、今度の選挙。福島県民は皆迷っている。何処に、誰に投票するかを。自分達が考える「正しさ」をどう表現するかを。

被災地であるがゆえに悩むのだ。どこかで大声で語られる「反原発」という正義の叫びとはかけ離れた悩み。

それは、大なり小なり、「福島の今」を知っているからだ。

昨日書いて「分断線」のことも引き合いに出した。被災3県と、それ以外の地域との分断。県内でもある、物理的なものだけではない「分断線」。

除染ひとつにしても町内会レベルで起きる分断線。現実の事例を上げて話す。そして問うた。「福島にとっての正義とは」「福島県民にとっての正しさ」とはを。

地に足がついた、自分の五感をフルに動かした上での、自分の言葉で語れる事実をキミ達は知っているはず。それを、分断線を取り除く、つなぎ合わせる努力につなげていかないと、と。

浜通りを南北に結んでいた国道6号も、許可された車両だけは通れるようになるお言う。288号も。しかし、道路がいささか復旧しても、それは「分断線」を無くすことのは同義ではない。

敢えて言う。未来は語るな、思うな。今を、現在を直視しろ、凝視しろ。そして考えろ、クタクタになるまで考えろ。今を考え尽くせたら、自然に未来につながる何かが浮かぶのだからと。

「福島の正義」とは・・・。それは、今を徹底的に考えること以外にない。それを自分の言葉として発信しろ。結論であって結論でないような「今の福島論」。

懇親会でも、彼らの議論は続いていた。そして、自論に拘泥するのでは無く、仲間の意見にも耳を傾け、咀嚼しようとしていた。

誰かが言った。「今、世の中にはいろんな塾があるのですが、我々の塾は違うのです」と。

彼らは「考えること」の楽しみや、自分なりの結論を見出した時の喜びを、重要性を認識してきている・・・。

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