2013年3月30日土曜日

分断線だけが出来あがっていく・・・

それをバリケードと呼んでいいのかどうか。富岡町に“行ってきた”人の話を聞いた。あちこちがバリケードだらけ。バリケードの先には何も無い光景・・・。

避難区域の再編作業が進められている。その再編は何のためにあるのか。とりあえず立ち入り禁止区域にされたところ以外は、住民は自由に一時の立ち入りがせきるようになったということだけじゃないかと。

富岡でも、楢葉でも、あさってからは浪江でも。それが“収束”に向かっているということか。とんでもない。

区域の再編は、バリケードに囲まれた区域をつくり、あらゆる意味で「分断線」を作っているに過ぎない。

敢えて青臭いことを言う。
バリケードとは大衆や民衆が、軍隊など“敵”と対峙するために作られたものだ。
1970年代の、多くの大学での学生によるバリケード封鎖。バリ封。バリケードを挟んで、そこには対峙すべき相手や敵がいた。
帰還困難区域などに作られたバリケード。その先にいる敵とは。汚染だ。そこに人はいない。何も無い、敵対すべき相手の姿が見えないところにあるバリケード。それをバリケードと呼ぶのは適切でないかもしれない。単なる規制線だ、境だ。

“戦い”の中で生まれたバリケードという用語。それが、そこに住んでいた人達の立ち入りを阻止するための日常用語と化した不可思議さ。

30キロ圏内の各所に設けられた規制線、バリケード。それは、あらゆる意味で、不条理の象徴なのだ。

避難と言う不条理が、帰還困難、立ち入り禁止、立ち入り制限・・・あらたな不条理を生んでいる。その不条理に個々人は怒りの感情や諦めの感情を示しながらも、諾々と従わねばならないという現実。

人を引き裂くことを目的としたとしか言いようが無いバリケード。何を意味しているのか。

民衆が作ったバリード。それが、今は、物理的にも形としても、どこかに“差別観”を伴った「柵」となった。

そしてバリケードは権力の側が使うものになった。沖縄の米軍基地はバリケードで「保護」されている。官邸の周囲には多くの警察官が立った車止めを使ったバリケードが出来ている。各省庁もバリケードで守られている。

国の一部がバリケードで分断されている。それが何を物語り、何を問いかけているのか。バリケードの向こうにある見えない敵、放射能汚染とどうやって戦うのか。

多くの「魂」がバリケードの前で立ちすくんでいることだろう。

バリケードをかいくぐって立ち入り、そこに侵入した人が逮捕、起訴される。
そこに置き去りにされた動物たちを保護しようとする“善意”の人達を。

バリケードの中で放置された動物たちの「魂」は何を思っているのだろうか。


福島県の一部の現実。それがこの国の他の地域でも起こらない事を願うしかないのか。

「バリケードを突破せよ」。もちろん非現実なことではあるが、そんな“指令”が頭の中をうず巻く・・・・。

区域再編が新たな混乱と分断を招く。その分断線は隣近所、家族にも及んでしまった・・・。

そして思う。分断線、バリケード、そこに立ち、立ち入りを阻止する役目の警察官が、もしかしたら地元の所轄の警察官ではないのかということ。彼らの心情もいかばかりかだろうと。

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