きょうはお彼岸の中日。花を買い求め、墓参する人たちと数多く出会いました。
亭主、東京八王子の墓に墓参叶わず。弟に代参願って。
家の仏壇に線香と花とお菓子と・・・心ばかりの手向け。
しばし、母や祖母と対話しました。
間も無く、母親の命日・・・。
間も無く、母親の命日・・・。
墓、位牌。そこには死者の魂が宿っているとされています。彼岸と此岸。死者と生者の行きあうところ。
東北のフォークロア、柳田国男に見る死生観。山中他界という“思想”があります。先祖の霊は山に上る。山から家や田んぼを見守っている。
それは、東北だけではないだろうけど、「故郷」という概念の中に、込められている相念。
立ち入り禁止区域を除いて、一時帰宅や立ち入り可能な地域では、荒れ果てた墓所を清め、線香や花で先祖を弔う。それが、生者の証であるかのように。
避難区域でも、そんな光景が数多くあったはず。
生者と死者の間で交わされる「会話」。それで成り立っている人の営み。死者と生者の会話、対話を妨げるものはありません。可能である以上は。
そこに存在しているかもしれない“結界”は、この時ばかりはその柵が取り払われる。
死者と生者の会話がされている時、生者と生者の間では、対話や会話が成り立たなくなってしまっている。見える者同士であるがゆえに。
生かされて者同士に出来あがってしまったような溝。柵、隙間。
古来、小さな部落、集落には“結”という相互扶助の“組織”がありました。文字通りの「結びつき」。それが、田舎を支えてきました。それが、なにやらわからぬコミュニティーという言葉に変えられても。
旧友に松永伍一さんという農民作家がいました。その人から教えられたことは多々あります。その一つ。おにぎりのこと。
「米を炊いて、母親は握り飯を作る。それを掌(たなごころ)で握る時、母親は思う。念じる。この子が大きく育ちますように。良い子になりますようように」と。その掌から伝わる想い。母親と子供との結びつき。だから、それは“おにぎり”ではない。“おむすび”、“結び”と呼ぶのだ」と。
機械で作られ、コンビニの店頭に並んだのは「おにぎり」かもしれない。だけど、母親が、作ったお弁当に入っているのは、お結び。
結の精神は、彼岸の習慣にも通じる。
その松永伍一さんが書いてくれた色紙を大事に温めています。そこにはこう書かれています。「折々を天に謝して生きる」と。
生者であることは、死者に、天に謝していくるということなのかもしれない。
仏壇を振りかえります。なんか声が聞こえたような、呼びかけてくるような気がしたから・・・。