誰かに書いて欲しい本がある。是非読んでみたい本がある。誰も手をつけようとしない、もう一つの“暗部”に迫った本。
仮に題名をつけるとしよう。
「福島県庁の730日~県知事は誰のために戦ったか~」。そんな本。
あの日以来、連日県庁に詰め、県庁の内部を、その動きを取材し、その横軸として、東電福島事務所を取材していた人達。地元紙でもいい。全国紙でもいい。
膨大な取材メモや情報を持っているはずだから。
後追い、追加取材、多くの関係者への。それらを含めた「検証報道」。
なぜか。原発事故以降、県庁は機能していたのか。機能していなかった。
“リーダー”であるべき知事は、県民に対して的確なメッセージを発したか。
発して無い。
一昨年書いた。「菅と雄平、この県は終わった」と。
原発立地県であるにもかかわらず、あらゆる対策が為されていなかった。国が避難指示出した。それはメディアでしか伝わらなかった。その時県は何をしていたのか。ただうろたえるだけだったのか。
町や村が、どこに避難すればいいのか。県からの指示はなかった。
例えば、きょうから区域再編になった葛尾村。
「勝手にどっかに逃げてくれ」。そんな県の対応だったと村長は述懐していた。
酪農家は、勝手に殺処分をしてくれというようなことを言われた。
あれもダメ、これもダメは言う。救うための算段はしない。病院や介護施設への対応にしても然り。
たぶん県民の多くが感じているはずのこと。
ことさらこの国の地方自治の構造を云々するわけではないが、県庁という存在は、ここ福島県にとって何だったのか。あらためて思うこと。
国との仲立ちに奔走した様子もない。県に町村が“陳情”に行けば、「国に伝える」という返答ばかり。国や東電と地町村の直接交渉だと突っぱねる。
先日の1Fの冷却装置の停電事故。知事は「知らなかった」と言ったとか。我関せずといった具合だったような。国から連絡があっても県民に伝えない。
東電を県庁に呼んで抗議したのは県庁の役人。幹部と言っていいのかどうかの。
知事が東電に乗り込んで怒るべきなのに。
もはや県の威令は県民には行き届かない。
何もしなかった知事。何も出来なかった県庁。その下で暮らしている県民。不幸だと思う。
あたかも、それは「当て職」であるかの如く、菅政権時代の復興構想会議や、今度の安倍政権の復興推進委員会にも名を連ねている。
そこで彼が何を言ったのか。何を発信したのか。何も伝わらない。
だから、原発立地県の県会議長を集めた自民党の会合で、出席者から再稼働を求める声が相次いだ時、県議会の斎藤健治議長が「事故を責任をもって収束させずに稼働させるなら、退席する。一緒に議論することはできない」と席を蹴って退席した。そのことが評価されるような有様。
原発推進派だった斉藤健ちゃんだってそうだったのに。
国は「「国民の生命と財産を守る」。いかに改憲論者とて、この憲法の精神に異論があるはずはない。
同じように、県民の生命と安全、財産を守るというのが県庁の県知事に課せられた当然すぎる“義務”であるはずなのに。
いったい、県庁とは何のために存在するのか。さまざまな場面で湧く疑問。
安全基準の設定に関しても。
国に振る、国の言いなりになっている。それでいいのか。いいわけは無い。
一昨年、県知事リコールを書いてみた。
旧知の仲であるがゆえに忍びないものもあったが。
リコール運動も起きない。顕在化していない。だから福島県民は「黙っている、怒らない」という“評価”をされる。マイナスの。
せめて“御用新聞”との汚名を着せられ、烙印を押されないためにも、感情論に陥ることなく、事実を検証した、福島県庁の700日を、本にまとめておくのは使命ではないだろうか。
これからの福島県のためにも。