一つの時代を語る時、それが好ましからざる時代であるから尚更か。
日本中が“マネーゲーム”で湧き、人の心はカネで買えると言ってのけたホリエモン。あの時代を“象徴”する人物だった。あの時代の代名詞が“ホリエモン現象”。
仮釈放された彼が昨夜の会見で言っていた。検察批判として。
「正義ほどうさんくさいものはない」と。彼が言わんとした正義が何を指すのかはわからない。しかし、この「言」は「名言」だと。
「3・11」は、この国を語る上での大きな分水嶺だったと思う。それ以前とそれ以降と。この国の時代認識、歴史の一つの転換点だったと思うから。
そして、それ以前でも、それ以降でも、いや、以降か。「正義」という言葉が氾濫した。多くの人が「正義」を唱えた。
正義とは何か。その答えを持っているひとは少ないと思う。いや、それへの答えは無いのかもしれない。
でも、「正義」ということについては考えなくてはいけないこと。私事だが・・・塾で去年、2回にわたって“正義とは何か”を話し合った。
日本人が考える正義の概念と、英語でいうJUSTICEとに違いはあるのか。
プラトンが説く正義、アルストテレスが説く正義、マルクスが説く正義・・・。
国家の正義、法の正義、戦争の正義、個人の正義・・・。
正義は誰にとっても必要なものである。しかし、いろんな正義があって正解は見つからない。
だから単純に考えようーと言って広辞苑の字解にある「正しい筋道、人が踏み行う正しい道」に収斂すれば、この国の各所には正義が存在しないことになる。
今、我々にとっての正義とはという設問に変えてみる。今。それも正しさという平易な考え方で。
それを被災地に考えてみる。“正しいことの判断とは”にも置き換えても。
そして話を「福島にとっての正義とは」に展開させた。
「正義」ということについて、深く考えて欲しかったから。
少なからず「正義の名の下の戦争」を経験して来た者にとっては、彼らにそれを考えて欲しかったから。
原発事故後、福島に対して「正義の名の下」に、さまざな事が語られて来た。今も語られている。
その多くに「うさんくさい」ものを感じ取る。何がうさんくさいか。それらに何らかの「意図」を感じるから。汲み取るから。
そして、正義の延長線上にあると捉えた責任。正義を持ち合わせていない人達は、自分たちで“正義”を行使しようとせず、なんでも「第三者委員会」に事を委ねる。免罪符を求めるような、かけ込み寺の如くのような。
さまざまな正義がある中で、誰しもが正義の人でありたいと思っているということ。
正義に「胡散臭さ」はあって欲しくないのだが。
だれかホリエモンに掘り下げて聞いて欲しかったな。
「うさんくさくない正義って何ですか。あなたが思っている正義って何ですか、どういうことですか」と。
権力は胡散臭いに決まっているさ。そう言い放ってしまえば身も蓋もないか・・・