今年は例年に比べて桜の開花が早いようだ。
あちこちの桜便りが届けられている。
さまざまな場所で、さまざまに咲く桜。
東京の千鳥が淵公園の桜は見事だという。
被災地にもやがて桜が咲く。その地がどんな状況であれ・・・。
一昨年の桜の季節。郡山でも見事に桜は咲いた。さまざまな混乱、混沌の中で桜はそのたたずまいを崩さず、何事も無かったかのように咲いていた。
桜を見ることを避けていたような気がする。それを愛でることに、一種の罪悪感すら覚え。しかし、それは“間違い”であったとも思い、桜の中でボクの頭は混乱していた。
そう、桜とは、それが平時であってさえも、その色香は人を惑わすものであったから。
一昨年の桜の季節、まだビッグパレットが避難所であった時、そこで見た光景。富岡から避難してきている人が、あの夜の森公園の桜の写真を手に、“謝罪”に来た東電の幹部に迫っていた。「この桜を返してください」と。
初めてブログに写真を添付した。夜の森公園の桜並木の写真を。町役場の人が撮ったという、人影の全く無い桜並木。
見る人が居ようと居まいと、桜は咲いていた。
「人見るもよし、見ざるもよし、我は咲くなり」。世阿弥の句を引いて、どこかで自分を律していたような気がする。
さくらーーーもうどれくらいその言葉に接してきただろうか。さくら~さくら~弥生の空は・・・で始まる歌にはじまって。さいた、さいた、さくらがさいたという小学校の教科書にはじまって。
大学の入試に合格した知らせは「サクラサク」の電報だった時代もあった。
今は、それがメールでやりとりされているのだろうか。
貴様と俺とは同期の桜・・・、深く考えずにそんあ歌も歌っていたような時もあった。
パッと咲いてパッと散る。その桜に「はかなさ」を感じた時も。
岡本かの子の歌も引いた。命をかけて吾ながめたり・・・を。
西行の辞世も引いた。願わくば花の下にて・・・を。
一時帰宅の際、富岡の人達は夜の森を訪れるのだろうか。富岡の人達が、道路沿いの荒れ地に桜の苗木を植えていた。三春の滝桜の株わけもあるという。
植えた苗木が大きな木に紙だつ頃には帰ってこようという願いが込められているような。
帰れるのかな、その苗木が育つ頃までに・・・。桜色に似た淡い期待かもしれないとも思ってしまっていた。
いつもの年より早く咲いた桜。遅々として進まぬ“復興”なるもの。桜は早い。人の為せる業は遅い。
夜の森には何度も行った。桜の花の下での多くの人の賑わいも見た。一昨年以来、あの桜の下には坂口安吾の世界が眠っているようにも見える。桜の狂気。
桜の季節とは無関係に、人間の“狂気”は、季節を問わずに続いているような。
隣の家の女の子、名前は「さくら」ちゃんという。通称さ~ちゃん。やがて近所の桜小学校に通うことになる。桜小学校の裏手には五百淵公園がある。そこの桜並木も見事だ。
今年、その桜とどう向き合うことになるのか。どう見るのか。どんな感情が湧いてくるのか・・・。今からこころの準備を整えておかなければならないのかも。