きょうはキリスト教の「復活祭」。十字架にかけられ殺されたキリストがその3日後に生き返って来た。復活した。それを祝う日だとされる。
各地の教会で復活の祈りが捧げられたことだろう。そして、死者から生者へとなったキリストに対して、被災地のキリスト者達は、何を思ったのだろうかとも思う。
教会を流された信者はどうしていたのだろうか。立ち入り禁止になった地域にも教会はあったはず。避難している地域で、どんな想いで祈りをささげたのだろうか。
ヨハネの福音書にはこうある。「イエスは死者の中から復活されることになっている」。
多くの死者の、せめて魂だけでも、それが“復活”されていればとも。
仙台教区の神父がこんなことを言っていた。
「復活の出来事は一人で起こるのではなく、遣わされた誰かの寄り添いと受け入れによって起こるのだ。地球の営みの中でしか生きられい私達は、日々の出来事を復活体験として捉え、復活体験によって活かされる」と。
出逢いは寄り添いとともに育まれ、結びつきへと変わるとも。
この言葉は毎日のように海を眺めている漁師風の年寄りの姿を見、会話したことで生まれたのだという。
そうだな、「復」の字を使うのなら「復興」よりも「復活」という言葉の方が当てはまるのかもしれないか。
指揮者の小沢征爾が病癒えて復活のタクトを振った。さっきテレビで見た。同じ「エグモント序曲」でも、やはり彼が振ると伝わるものが違う。
復活した彼のタクトはより深みのある音楽を紡ぎだして行くのかもしれない。
水戸芸術館の館長にも“復活”した。空席だった吉田秀和の後任として。
郡山から妻と子が新潟に避難していた一家。離散していた家族。新年度を前に、新学期を前に横浜で家族一緒に、ようやく暮らすことになった。
「ようやく我が家も復活しました」。嬉しそうに電話をかけてきた。復活祭のこの日に。
小沢征爾77歳の復活。俺、まだ若い。何かを復活させなくてはいけないのかな。別に何の活動を休止させていたわけではないけど。
だけど、言葉は難しい。世の中の大勢は、なんか「いやな時代」に復活していくような空気があるし。
間違った歴史の復活だけはご勘弁いただきたいのだが。