戦後、いや、それ以前、文明開化の頃からか。上等なものは“舶来品“と呼んで珍重した日本人。
もっと前は南蛮渡来っていう奴か。
舶来。それは船によって輸入されて来たってことに語義を発するものと理解する。
舶来品は高級であり、高価であり、つまり今の海外ブランド商品ということか。それは品物のみならず文化や文明、科学などの学術分野にも及んでいた“思想”。
多くのカタカナ語の氾濫もそれの故かとも思わざるを得ないありさま。
グローバリズム、グローバリゼーション。そんな一言で括れば事は簡単なのだろうが。
およそ、「国際」と名が付く物には、それを一つの“権威”として捉える思考。
原発事故後、海外メディアが発信する放射線に関する情報は、おおよそ「是」とされ、国内メディアは「否」とされて傾向。
ICRP(国際放射線防護委員会)が打ち出す基準は「是」とされ。珍重され、「国内」の「国」の基準は「否」とされてきた流れ。
IAE(国際原子力委員会)の言う事は、まさに「鶴の一声」の如くあり。
WHO(世界健康機構)は「すべての人々が可能な最高の健康水準に到達することを目指す」国連の専門機関。WHOが打ち出すさまざまな基準や見解は、すべて「正」であり、物事の判断基準として尊重されてきた。
今度ばかりはそうはいかない。福島原発事故の影響調査でWHOは“一部乳児にがんのリスクが増える”という予測を発表した。これは新聞の見出し。
大半の福島県民では、がんが明らかに増える可能性は低いと結論付けた一方で、一部の地区の乳児は甲状腺がんのリスクが生涯で約70%、白血病なども数%増加すると予測」というのがその骨子。
舶来志向の強い日本人、この発表にすぐ飛びつく。「やはり、がんが・・」と。それは一般の人たちばかりではない。マスコミもそうだ。全体では増加見えずを見出しに取るところと、一部乳児をの個所を見出しにとるところと。それを如何に報道するかのマスコミの分水嶺なのに。他人事のような記事に接すると、もう何をかいわんやの心境。
その記事の扱いの大きさも。
新聞記事をよく読んでみる。見出しに踊らされるのではなく。
「計画的避難区域の住民が事故後40日間避難もせず、(汚染されたとみられる)県内産の物しか食べなかったという前提で推計した」とある。
そんな人はいない。乳児だって。
役所に信を置かない亭主だって、これは環境省の人の言い分に利ありとする。
「線量推計の仮定が実際とかけ離れている。未来予想図ではない。この確率でがんになると思わないでほしい」という説明に。
WHOはこう反論する。
「想定は過大評価になるかもしれないが、過小評価よりも良い。過小評価してしまう危険を最小化したかった」と。
なんという“政治的ロジック”の展開ですかね。
飯舘村の菅野村長始め、当該地域の首長はこぞってこのWHOの“未来予想図”に異議を、疑義を唱えた。住民のことを考えてない、無責任な報告書だと。
そうなんだろうな。研究機関やら何とやらは、研究のための研究をやっていればいいんだよな。それが“権威”を高め、その存在意義を誇示しようとしているんだよな。と。
研究者にも翻弄されているような原発被災地。
だからね、この記事を書いた大手マスコミの記者は、もっと深く、解説含めて書く必要があるんだよ。本社は指示すべきなんだよ。
なぜこの時期の発表なのか。その“禅問答”みたいなコメントの奥に何か意図があるのではないか、一体、WHOは何を言いたかったのかを。などなど。
原発事故後、ことの“真相”や、放射線被害については、未だ外国の見解に信を置いている人が多い。裏返せば日本に「人無し」ということにもなるのだろうが。
舶来品は船で来た。今や空を飛んでくる空来品のPM2,5なる大気汚染。その恐ろしさだけはメディアは取り上げているものの、張本人、その国の人たちがどうそれを改善しようとしているのかは殆ど伝えられない。怖い、怖いとあの国の人だって言っている。WHOは何も言わないのだろうか・・・。