昭和50年代のはじめ、毎日新聞に“画期的”な連載企画があった。
「宗教を現代に問う」。
企画意図は定かに記憶していないが、高度経済成長まっしぐらの時代だったか、
宗教を通して、宗教とは何かを問う“画期的”な企画であり、ルポだった。新聞で読み、後に5部に別れた本となった。
それを読みながら、宗教と言う物への関心が高まり、その意義を知った。
毎日新聞にはもう一つ、素晴らしいルポ企画があった。大森実の「泥と炎のインドシナ」。
毎日新聞にお願いがある。宗教を現代に問う、その平成23年以降の企画をやってくれないかと。
少なくとも先輩記者達は、一つのジャーナリズムの在り方を残しているのだから。
朝日新聞は、「プロメテウスの罠」を、それこそ廃炉になるまで続ければいいと思う。あの企画には時々疑義はあるものの、新聞社の「記録」として、意義あるものだと思うから。
ブッシュはイラクを攻撃した。10年前。それはブッシュのブッシュによるブッシュのための戦争だった。
イラクという国は破壊された。フセインは死んだ。しかし、多くのアメリカ兵はその後遺症に苦しんでいる。戦争こそしなかったものの、派遣された自衛隊員にも後遺症がある。
そして、フセインの独裁政権打倒がもたらした物は、イスラム教の間での宗教的対立の過激化。未だもって多くのイラク国民がテロによって命を落としているという事実。
オバマはイスラエルに行っている。イスラエル対イラン。根本にあるのは宗教的対立。
そして、新たなローマ法王が誕生した。貧しい人達に目を向けるという。多くの人達の歓喜に包まれたサンピエトロ広場。なぜ、今、新法王を、教皇を人は歓迎するのか。
一昨年、3・11後。宗教を現代に問うということを書いた記憶がある。地震、津波、原発事故・・・。廃墟が突然に出現し、多くの人命が奪われた。
まさに「不条理」である。そして、その「不条理」は今も続いている。
その不条理を、自分なりに受け入れるためにも宗教者の言葉を待った。明快な言葉を発した人を、宗教家を見ていない。宗教家をもってしても語りえなかった不条理。
ネットに登場した著名な宗教者の言葉から何も意義を感じなかった。テレビに登場する宗教家、宗教者、無意味な言葉を“捻り出して”いるようだった。
教会にも言った。何も語られなかったに等しい・・・。
彼らからは何の“救い”も得なかった。
山浦玄嗣氏の「お水くぐりの聖書」の話は清々しさと畏敬の念を与えてくれたが。
灰燼に帰した津波の被災地。まだその煙が立ち上る中、黙々と片手拝みで歩きつづけ、立ち止って経を読み、深々と頭(こうべ)を垂れる若い僧の姿を新聞やテレビで見た。
その若い僧の姿には打たれた。被災地の寺の僧だと言うことは知ったが、見落としたのか、彼が何を思っていたのか、何を語ったのか。それを知らない。
ある時期からマスコミ界では「宗教を語る」ことが、タブー視されたような傾向がある。それが何故かは、今は問わない。
科学は無力であった。学者の言辞も無力であった。「こころの問題」が数多く残こされている。
この国が、“破壊”されようとしている、いや、破壊寸前になっているような昨今。
一つの心の拠り所として、宗教を問うということは必要なのではないかと。少なくともボクはそれを待っている。
被災地の子供達が、避難している子供達が、言葉を紡いでいる。宗教家の言葉よりもボクの胸には響く。
宗教とは何か。哲学なのか。任せるということなのか。あらゆる角度から宗教を取材し、彼らが何を思っているのか、それを書くことは、現代のジャーナリズムの“最後の砦”なのかもしれないとも思って。