あおうあるべきこと、ごく普通であること。それを「当たり前」と言った。
もっと深い意味合いもあったかもしれない。当然だということ、常識だということ、多くの人がそう思っていること・・・。
「アタリマエダノクラッカー」。そんなCMのコピーも、その時代を表象する“文化”として、その商品を買ったかどうかはともかく、一種の流行り言葉だった。
60年、その前後。
子供はほとんどがトラホームという眼の病気を患っていた。
結核予防のツベルクリン反応とBCGという痛い注射の洗礼を受けていた。
大方の子供は青っぱなを垂れ、学校に検便を持って行き、虫下しを飲んで虫を除去していた。
鼻血を流していた。ちり紙をコヨリ状にして鼻の穴に詰めていた。
当たり前の戦後の光景。
3月10日の東京大空襲。1945年。焼け野原になった東京。しばらくして、トタン屋根のバラック住宅が建てられ始めていた。
水洗トイレなんて無かった。糞尿は肥樽に集められ、そう汲み取り式と言う名の便所の様として、それは堆肥として、田んぼや畑の中に積まれ、溜められていた。野原を駆け回る子供たちは、一回は経験している。肥え溜に落ちることを。
それが肥料として撒かれた野菜を食べる。虫が湧く。家の中にはハエが舞う、蚊も飛んでいる。
みんな「当たり前」だった。
暖を取るのは火鉢。冷房なんて思いもよらなかった。15アンペアの電気は年中ヒューズが切れていた。
本を読みたがりの少年は、そのころ出来始めた「貸本屋」に通った。なぜか手当たり次第に大人の本を読んでいた。歴史小説、剣豪小説、戦記物。そして、山本有三、武者小路実篤、志賀直哉、小林多喜二・・・。
ラジオからは歌謡曲と時たまジャズ、そして浪曲と落語。トンチ教室、二十の扉・・・。
そんな日々の、日常の繰り返しを当たり前だと思っていた。
高校時代、通学の電車の中から毎日見ていた光景。戸山の職安にたむろし、焚き火をし、酒を飲んでいるおじさんたち。
それは「当たり前の事」ではなかったのだが、光景としてはいつもそこにあった。
もう“隣組”っていう言葉は無かったかもしれないが、回覧板を回しあい、大人達の間では、多少のカネの融通が行われていた。借りた、貸した。
食べ物も廻ってきていたような気がする。
「すまないね~」。
「いやいや、困った時はお互いさまだよ」。
合言葉のように使われていた「お互いさま」。
新宿にはいつも闇市があり、そこで一儲けした人達は大きな家を建てた。
「あそこは闇成金だ」。皆が侮蔑のまなざしでそこを見ていた。
「困った時はお互いさま」。手を差し伸べられたり、差し出したり。
子供心に、何かが育っていったような気がする。
そしていつしか。朝鮮特需があり、経済成長が国の目標になり、人々は「豊かさと便利さ」を手に入れた。“三種の神器”に始まり、ひとたび芽生えた“欲”はとどまることを知らなくなった。
「自分がよければ」「自分たちさえよければ」。そんな社会システムが出来あがって行った。
それらは30年前の当たり前の社会だった。
そんなこんなの、あの頃からの60年後。再び過疎化が進み、高齢化社会が出来、人口減が言われ始め、社会シュステムの見直しが、政治とは別次元で考えられ始めた時、再び東北を津波、地震が襲い、おまけに原発事故も連れてきた。
これでもか、これでもかと“苦しめられる”東北。しかし・・。
被災地東北には「お互いさま」の精神がどこかに生きている。生きていた。その心根は都会のどこかにもあった。
お互いさま精神が“再確認”されて時、人々は、束の間「ほっと」したはず。
東北人が時代の流れに“鈍感”だったのでは決して無い。土や山や川や海と“共生”している中で、その精神がおのずと心に宿されていたということ。お互いさまの精神は人間同士だけではなく、自然との間にもあったということ含めて。
3・1前、突如として、それは日本語でもあったにも関わらず、外国から“逆流”してきた言葉。「モッタイナイ」。それに“覚醒”させられた人達もいたはず。
「お互いさま」。それをもう一回復活させるのも悪く無い。復興の中には心の復興というのもあっていいはずだから。